19世紀後半、欧米の列強諸国は次々とアジアの国々を植民地化していき近代化が始まったばかりの日本でも急速に「脱亜入欧」の思想が広まります。
その流れの中、1894年朝鮮で甲午農民戦争が起こりました。
今回は日清戦争のきっかけとなった『甲午農民戦争の覚え方(語呂合わせ)』についてご紹介します。
その前にまずは、甲午農民戦争とはどのような出来事だったのかおさらいしていきましょう!
目次
甲午農民戦争とは?
(甲午農民戦争の始まりとともに広まった全琫準の檄文 出典:Wikipedia)
甲午農民戦争とは、1894年(明治27年)朝鮮で農民たちが起こした大反乱のことです。
干支にちなんで甲午農民戦争といいますが、この反乱を指揮した宗教団体の名前から「東学党の乱」とも呼ばれています。
当時の朝鮮ではキリスト教は西学、それに対抗した朝鮮独自の宗教を東学と呼んでいました。
物価高騰や物資不足など生活に苦しんでいた農民たちと宗教的な弾圧を受けていた東学党の利害が一致、政府への大きな不満や怒りからくる反乱が朝鮮全土に広がりました。
農民たちがこの時政府に要求したのは・・・
①外国人の排斥
②雑税の廃止
③耕作地の均等化
などです。
そこで朝鮮を治めていた李氏朝鮮は反乱の鎮圧を清国へ依頼しました。
政府から依頼を受けた清国は朝鮮へ出兵したのですが、清国の出兵に対抗して日本からも軍隊が派遣されました。
なぜここで日本が出てくるのか?その背景には当時の朝鮮政府内の混乱があります。
当時の朝鮮政府内には清国を頼る親清派と日本と通じて近代化を図ろうとする親日派が存在し互いに覇権を争っていました。
甲午農民戦争以前の1884年には日本の援助によって独立党がクーデターを起こしたものの(甲申事変)、清国軍により鎮圧された過去があります。
甲申事変後の1885年には日本と清国の間で天津条約が結ばれ朝鮮からの両国即時撤兵や将来的な朝鮮への出兵は相互に通知すること、などが決められました。
この天津条約があったために清が出兵するのならば日本も、ということで両国の軍隊が朝鮮の地に集うことになったのです。
しかし清国や日本からの援軍があったにもかかわらず甲午農民戦争は農民たちの勝利に終わりました。
清国軍も日本軍も積極的に反乱の鎮圧には動かなかったことや、日本軍が来たことに朝鮮政府が動揺したことなどの結果、政府は農民たちの要求を受け入れ和解条約を結んだからです。
こうして甲午農民戦争の和解が結ばれたことで一時は両軍の同時撤退へと話がまとまりかけました。
しかしながら朝鮮での実権を握りたい両国の思惑もありついに日清戦争開戦へと向かっていったのでした。
【甲午農民戦争の覚え方】年号(1894年)の語呂合わせ
甲午農民戦争の語呂合わせ①
一派(18)を自力で駆除(94)したかった李氏朝鮮
朝鮮政府だけで甲午農民戦争を抑えることができていれば日清戦争は起こらなかったかもしれませんね。
甲午農民戦争の語呂合わせ②
東学党一派(18)が苦心(94)して甲午農民戦争
東学党の人々も農民を巻き込んでの反乱は避けたかったのではないでしょうか?
甲午農民戦争の語呂合わせ③
農民の反乱で市場(18)が休止(94)
市場がお休みではお手上げです。こうして人々の間に反乱の賛同者が増えていったとも考えられます。
甲午農民戦争の語呂合わせ④
一か八か(18)、苦し(94)みから逃れたくて反乱
農民の生活も宗教の自由も弾圧されていた時代、反乱を起こす以外になにかできたでしょうか?
甲午農民戦争の語呂合わせ⑤
いや(18)苦し(94)んでまた戦争
甲午農民戦争の次は日清戦争。戦争がこの世の中から消える日が待ち遠しいですね。
甲午農民戦争の語呂合わせ⑥
い(1)っきに焼くよ(894)!!甲午農民戦争
甲午農民戦争の語呂合わせ⑦
みんなでいっぱい(1)拍手(894)だ!甲午農民戦争
甲午農民戦争の語呂合わせ⑧
い(1)まは白紙(894)で農民戦争!
以上、甲午農民戦争の語呂合わせでした!