江戸幕府末期、いろいろな外国船が日本に来るようになりました。

 

そのなかには漂着した船もあれば、日本人の漂流者を送ってきたものもありました。もちろん、はっきりと日本に開国を求めて来た外国船も含まれています。

 

なかでも、ペリーの艦隊が来航した事件は重要です。

 

江戸時代末期から明治時代初期にかけての出来事を整理するポイントとしても、ペリー黒船来航の年号と内容を整理して覚えておきましょう。

 

ペリーの黒船来航とは?

(横浜への黒船来航 出典:Wikipedia)

 

 

「ペリー黒船来航」とは、1853年アメリカ東インド艦隊司令長官ペリー指揮の艦隊が、当時の江戸湾、東京湾の入り口にあたる浦賀沖に来航した事件のことです。

 

このときのペリーの艦隊は蒸気船2隻を含む4隻でした。

 

黒船という呼び方は、南蛮船の多くが黒塗りであったので、江戸時代前から欧米の船をそう呼んでいた事情もありますが、とくにペリー艦隊の蒸気船が煙突から黒煙を吐き出しているのを、近代化した欧米の圧力の象徴とみて、そのように表現したともいわれます。

 

 

(黒船ミシシッピ号 出典:Wikipedia)

 

 

当時のアメリカは、産業革命期に入っていたヨーロッパ諸国と比べて、世界市場への進出が遅れていました。

 

中国と日本の市場を目指したアメリカは、ペリー以前にも中国との条約批准のためにビッドルを派遣し、同時に日本との交渉を命じました。ビッドルは1846年、浦賀に来ています。

 

このときには条約交渉ができず、あらためて1853年にペリーが派遣されたのです。幕府はペリーの久里浜上陸を認めて、アメリカ大統領の国書を受け取ります。

 

幕府は将軍が病気であることを理由にして、すぐに回答できないとしたため、ペリーは1年後に再来航すると言い残して江戸を離れます。

 

翌1854年2月、ペリーは浦賀に再びやってきて、交渉のうえ日米和親条約を締結します。

 

 

これによって、江戸幕府の鎖国政策が終わりました。ペリー来航の時期の前後を通して、攘夷か開国か、国内の政治体制をどうするかなど、多くの日本人がいろいろな意見を表に出すようになります。

 

【ペリー黒船来航の覚え方】年号(1853年)の語呂合わせ

ペリー黒船来航の語呂合わせ①

嫌(18)でござん(53)す、ペリー黒船来航

 

ペリーが最初、黒船で浦賀沖に現れたときの日本側の対応に関わらせて、昔から言われてきた語呂合わせですが、「い(1)や(8)でご(5)ざん(3)す」と覚えましょう。

 

ペリー黒船来航の語呂合わせ②

攘夷の人は(18)困るさ(53)、ペリー黒船来航

 

江戸幕府中枢だけでなく、攘夷論者も含めて多くの人びとが対応策を考えなければならなかったことに関わらせて「ひと(1)は(8)こ(5)まるさ(3)」と覚えましょう。

 

ペリー黒船来航の語呂合わせ③

外交が一(1)か八(8)かで、誤算(53)のペリー黒船来航

 

②と同様、これまでの外交政策である鎖国をどうするかという議論がさかんになった事情に関わらせて、外交が「いち(1)かばち(8)かで、ご(5)さん(3)」と覚えましょう。

 

ペリー黒船来航の語呂合わせ④

対応がいや(18)、込み入った(53)ペリー黒船来航

 

最初の黒船来航のさいだけでなく、次の来航までの期間、対応策が幕府内外でいろいろと錯綜した事情に関わらせて「い(1)や(8)こ(5)み(3)いった」と覚えましょう。

 

ペリー黒船来航の語呂合わせ⑤

アポ無しの人は(18)ごめん(53)のペリー黒船来航

 

突然に現れたペリー艦隊に対する、江戸幕府だけでなく、諸大名や武士、さらに一般の町人たちの驚きに関わらせて、アポ無しの「ひと(1)は(8)ご(5)めん(3)」と覚えましょう。

 

 

以上、ペリー黒船来航の語呂合わせでした!

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