現在でも北方領土の問題で交渉をしていますが、明治時代にもロシアとは領土問題で交渉をしていました。
その交渉で千島列島が日本の領土であることを確定したのが「樺太千島交換条約(1875年)」です。
今回はこの樺太千島交換条約の概要・締結年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します
目次
樺太千島交換条約とは?
(千島列島の日露境界 出典:Wikipedia)
まず始めに、1855年に定められた日露和親条約にさかのぼります。
この条約で日本とロシアの国境は得撫島(うるっぷとう)と択捉島の間となりました。
しかし、そのとき樺太については領有権を決めず、不明確な状態のままでした。
翌年クリミア戦争が終わるとロシアの樺太開発が進み、さらに事態は混乱して行きます。
江戸幕府とロシア双方が樺太に移民を流入させ、そこにアイヌの人々も加わり不安な状況に陥りました。そして、その後の明治時代になってからも、日ロの争いは絶えませんでした。
この事態を受け、北海道の開拓を指揮していた黒田清隆は、樺太を放棄し北海道開拓に力を注ぐことを唱えます。
(黒田清隆 出典:Wikipedia)
当時の日本にとってロシアは強国だったため、北海道を万全な状態にすることがロシアに対抗する最良の方針だと黒田は考えました。
最終的に黒田清隆の主張が通り、ロシアに対し樺太の放棄を申し出ます。
その結果、特命全権大使の榎本武揚がサンクトペテルブルクに派遣され、1875年(明治8年)5月7日樺太千島交換条約を取り結ぶことができました。
(※条約を締結した場所の名から、サンクトペテルブルク条約とも呼ばれています)
この条約で樺太は手放しましたが、千島列島を全て日本が保有することになり、さらに漁業権などについての取り決めも行われました。
しかし、その後の日露戦争の講和条約であるポーツマス条約において、南樺太を譲渡されるなどし、樺太千島交換条約は無効になりました。
【樺太千島交換条約の語呂合わせ】年号(1875年)の覚え方!
樺太千島交換条約の語呂合わせ①
火花いつ(1875)散る樺太千島
日本・ロシア・アイヌの人々の緊張感は計り知れません。
樺太千島交換条約の語呂合わせ②
樺太の住み分け一派(18)七こ(75)ろび八起き
一回は退いた住み分け派ですが、後に目標が達成されました。
樺太千島交換条約の語呂合わせ③
樺太取られて嫌(18)だ泣こう(75)
黒田清隆も本当は樺太を渡すことは嫌だったのかもしれません。
樺太千島交換条約の語呂合わせ④
樺太の市場(18)で何語(75)を話すのかな
さまざまな民族が居住する場所では言葉もイロイロです。
樺太千島交換条約の語呂合わせ⑤
樺太をいっぱ(18)いもらって和(75)やかだ
樺太をもらえると分かっての交渉ではロシア側も機嫌が良いでしょう。
以上、樺太千島交換条約の語呂合わせでした!