天智天皇は百済復興を助けるため朝鮮半島に兵を送り、唐と戦い大敗しました(663年、白村江の戦い)。
敗戦後は、防人をおいたり、防衛に優れた近江宮へ都を遷し国防を強化します。
大化の改新で天皇中心の中央集権体制つくりを進めていた天智天皇。白村江での敗戦や、負担の大きい国防に難色を示す者もいました。
こうした中で、天智天皇の死後に壬申の乱がおきます。
今回は壬申の乱の覚え方(語呂合わせ)とともに概要もしっかりおさらいしましょう!
目次
壬申の乱とは?
(大友皇子 出典:Wikipedia)
壬申の乱とは、672年大友皇子(おおとものみこ、天智天皇の息子。のち弘文天皇)と大海人皇子(おおあまのみこ、天智天皇の実弟。のち天武天皇)が、天皇の座をめぐって争った内乱のことです。日本古代で最大の内乱と言われています。
天智天皇は長子の大友皇子を跡継ぎに指名します。そして、大海人皇子は吉野へ引きこもり出家しました。
(大海人皇子 出典:Wikipedia)
672年、天智天皇の死後に、大友皇子は弘文天皇として即位します。そして、「吉野にいる大海人皇子の討伐を企てている」といううわさが広まります。これに対し、大海人皇子は反撃にでます。
大海人皇子は吉野(今の奈良)→不破(今の滋賀)へわずか4日で行軍し、各地の豪族や東国の兵を集めます。近江宮にいる弘文天皇側にはあまり兵が集まらず、敗戦が濃厚になります。そして、弘文天皇は自害し、大海人皇子が勝利しました。
大海人皇子が多くの豪族や兵を集められて、壬申の乱に勝利したのは、以下の要因がありました。
大海人皇子の勝利の要因
〇天智天皇時代の白村江の敗戦や防人配置などの国防強化策に不満がでており、特に、東国出身者が中心の防人は負担が大きかったため、反動で大海人皇子側に兵が集まった。
〇当時、天皇は母親が皇族か豪族出身の皇子が継いでいたため、大友皇子は天皇になれるほど血統が高くなかった。大海人皇子の母は皇族出身、大友皇子の母は采女(女官)。
〇天智天皇を補佐していた大海人皇子は天皇になるための能力、経験が周囲に認められていた。
そして大海人皇子は、壬申の乱後に即位して天武天皇となります。
【壬申の乱の語呂合わせ】年号(672年)の覚え方
壬申の乱の語呂合わせ①
無難に(672)乗り切る壬申の乱。
大海人皇子側は、最初大変だったようですが、兵もたくさん集まって無事、乱を乗り切ることができました。
壬申の乱の語呂合わせ②
ム!(6)なに(72)を!大海人なぜ挙兵。
大友皇子からすれば、大海人皇子が挙兵したのにびっくりというところでしょうか。
壬申の乱の語呂合わせ③
ロクな(67)目に(2)あわなかった大友皇子。大海人が勝利
父から天皇を譲り受けた大友皇子。叔父さんに自害に追い込まれるとはロクな目にあいませんでした。
壬申の乱の語呂合わせ④
ロクなにん(672)げんじゃないよ、勝った大海人皇子
出家して吉野にこもっていた大海人皇子。天皇になるために挙兵するなんて、よく考えるとロクな人ではないかもしれません。
壬申の乱の語呂合わせ⑤
恨むな(67)大海人に(2)。みんな逃げて大友は自害
大友皇子の敗色が濃くなると逃げ出す人が多かったようです。大友皇子は自害します。大海人に恨みを持ったでしょうが、成仏できたのでしょうか。
壬申の乱の語呂合わせ⑥
胸に(672)グサりと壬申の乱
壬申の乱の語呂合わせ⑦
無駄に(672)はしない壬申の乱
壬申の乱の語呂合わせ⑧
大友皇子ろく(6)に政(7)権握(2)れず。
以上、壬申の乱の語呂合わせでした!