第二次世界大戦後、敗戦国となった日本は、かつて敵対したアメリカと急接近し、日米安全保障条約を結びました。
1960年の改定では、集団的自衛権に基づく日米の同盟関係を規定するものへと変更され、多くの人々の反対にあいました。
今回はそんな1960年に起こった日米安全保障条約の改定の概要・年号の覚え方についてご紹介します。
目次
日米安全保障条約の改定とは?
(安保闘争「国会に向かうデモ隊」 出典:Wikipedia)
第二次世界大戦後、1951年に日本は連合国側49カ国とサンフランシスコ平和条約を結びました。
その際にアメリカとの平和条約と一緒に、日本の防衛のために日米安全保障条約を結びました。
冷戦下で結ばれたこの条約では、米軍の駐留や侵略・内乱の際の出動などが規定されていました。
しかし、米軍の駐留に期限がなかったことや、アメリカの日本の防衛義務は明記されなかったりしたため、対等とはいえない条約でした。
その後1960年(昭和35年)、岸信介首相はこの旧安保条約にかわる新日米安保条約に調印しました。
(岸信介 出典:Wikipedia)
内容は、集団的自衛権を前提としており、アメリカの日本防衛義務を明記し、在日米軍の日本と極東での軍事行動に関する事前協議制をとること、条約期限を10年とし、以後は一年前の予告によって締結国は一方的に破棄できるというものになっています。
1960年の日米安全保障条約締結によって、戦争に巻き込まれるなどの懸念から日本で安保闘争という大規模な反対運動が起こりました。
特に調印後、自民党が条約の承認を強行採決したことで、運動はますます盛んになり、連日デモが起こり、アメリカのアイゼンハワー大統領の来日も中止となるなどして、岸内閣は総辞職に追い込まれました。
しかし、現在もこの日米安全保障条約は、破棄されることなく効力をもっています。
【日米安全保障条約改定の語呂合わせ】年号(1960年)の覚え方!
日米安全保障条約改定の語呂合わせ①
新安保条約締結で一つ(1)苦労(96)を(0)するか
岸首相は辞職に追いこまれたので、このような気持ちだったかもしれませんね。
日米安全保障条約改定の語呂合わせ②
新安保締結反対デモに行く(19)のはロマン(60)がある
安保闘争に参加した人々はそれぞれ日本の将来にロマンをもっていたことでしょう。
日米安全保障条約改定の語呂合わせ③
新安保締結に行く(19)老齢(60)の岸首相
年号ついでに締結した首相の名前も覚えましょう!
日米安全保障条約改定の語呂合わせ④
新安保締結で戦争に行く(19)のは無縁(60)を願う
当時は戦争に対する拒否感も今より強く、戦争に巻き込まれる心配から安保闘争は大変な規模になったと言われています。
日米安全保障条約改定の語呂合わせ⑤
新安保締結で引く(19)ほど無礼(60)に罵られる
当時の岸首相の言われようはひどいものだったでしょう。
以上、日米安全保障条約改定の語呂合わせでした!