12世紀に登場した元は、ユーラシア大陸の東西にまたがる広大な領土をもつ大帝国でした。

 

元は隣接諸国に服属を求め、応じない場合は武力を用いました。この膨張政策が日本におよんだ事件が元寇です。

 

元寇は、文永の役と弘安の役の2回ありました。これらは順序をまちがえたり、年号を混同しやすいところです。

 

今回は2回目の「弘安の役(こうあんのえき)」の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

その前にまずは、弘安の役とはどのような出来事だったのかおさらいしていきましょう!

 

弘安の役とは?

(弘安の役「元寇防塁の上に陣取る御家人たち」 出典:Wikipedia)

 

 

「弘安の役」は、1281年、2回目の蒙古襲来のことです。

 

1回目の文永の役の翌年の1275年、元は杜世忠を1279年、周福を正使として重ねて服属を要求してきました。

 

 

しかし、鎌倉幕府は使者たちを処刑してしまいます。これは、8代執権北条時宗の「元には屈しない」という決意の表れでした。

 

鎌倉幕府は元の再度の襲来に備えて、九州と安芸の御家人に征討の準備と防塁作りを命じます。防塁作りは、初めのうち御家人にだけ割り当てられましたが、やがて非御家人にも命じられました。この防塁が、弘安の役では威力を発揮します。

 

12815月、元は朝鮮から出発した東路軍(元と高麗軍で4万)、滅亡した南宋の軍人を中心とする江南軍(10万)のおよそ14万人という大軍を送り込んできました。

 

まず東路軍が対馬と壱岐を襲い、それから江南軍を待って博多湾に攻め込んできました。このとき防塁によって上陸がはばまれました。

 

幕府軍の武士たちは文永の役で戦法の変更を学び、伝統の一騎打ちでない集団騎馬戦を挑んで、元軍を悩ませました。さらに、台風が元軍の船をふきとばしてしまい元軍は敗退しました。

 

しかし、勝利した鎌倉幕府には、参戦した御家人に与える恩賞がほとんどありません。

 

すでにこの時期、かなり窮乏していた御家人は恩賞をもらえれば少しは生活も楽になったのでしょうが、征服地を得たわけではない幕府には恩賞に充てる土地はなかったのです。

 

こうして、御家人たちの不満が積もって行き、鎌倉幕府滅亡の遠因となります。

 

【弘安の役の覚え方】年号(1281年)の語呂合わせ

弘安の役の語呂合わせ①

集団で 人に(12)矢(8)を射(1)る、弘安の役

 

幕府軍が統制のとれた集団戦法を用いていたことに関わらせて「ひと(1)に(2)や(8)をいる(1)」と覚えましょう。

 

弘安の役の語呂合わせ②

鎌倉武士の奮戦に畏怖は(128)人(1)の習いなり弘安の役

 

元側の史料によっても指摘されているように、武士たちが勇猛に戦ったことに関わらせて「い(1)ふ(2)は(8)ひと(1)」の習いと覚えましょう。

 

弘安の役の語呂合わせ③

元の使者もいつ(12)灰(81)となるのか、弘安の役

 

前回の元寇、文永の役後にやってきた元の使者が処刑されたことに関わらせて「い(1)つ(2)は(8)い(1)」となるのかと覚えましょう。

 

弘安の役の語呂合わせ④

人には(128)一番(1)乗りは武士のつね、弘安の役

 

弘安の役では、集団戦を採用していたとはいえ、先駆け、一番乗りは武士の理想であることに関わらせて「ひと(1)に(2)は(8)いちばん(1)のり」と覚えましょう。

 

弘安の役の語呂合わせ⑤

一(1)、二夜(28)で人(1)が夜襲をかける、弘安の役

 

幕府軍が小舟で夜襲をかけるゲリラ戦のような戦いをしたことに関わらせて「いち(1)、に(2)や(8)でひと(1)」が夜襲をかけると覚えましょう。

 

弘安の役の語呂合わせ⑥

一度二度やいば交える弘安の役

 

弘安の役の語呂合わせ⑦

いつ(12)敗走(81)するんだ、元の船

 

弘安の役の語呂合わせ⑧

悲痛(12)な敗走(81)、元逃げる

 

 

以上、弘安の役の語呂合わせでした!

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