室町幕府には15人の将軍がいました。江戸幕府の将軍の数と同じですね。

 

室町幕府は足利幕府ともいわれるように、源氏の名門である足利氏の幕府です。

 

室町幕府という名前は3代将軍義満のとき、京都の室町に邸宅を作って、そこで政治をおこなったことから来ています。

 

室町幕府の歴代将軍を覚えておくことは、武家政権であった鎌倉幕府から、一時的な公家政権である建武の新政(1333年)を経て、武家の力が歴史において後戻りできないほど大きくなった事実を確認するためにも重要です。

 

今回は、室町幕府歴代15代将軍の覚え方についてご紹介します。

 

まずは室町幕府の歴代15代将軍を確認しよう!

(室町殿 出典:Wikipedia

【室町幕府歴代15代将軍】

  1. たかうじ(尊氏)
  2. よしあきら(義詮)
  3. よしみつ(義満)
  4. よしもち(義持)
  5. よしかず(義量)
  6. よしのり(義教)
  7. よしかつ(義勝)
  8. よしまさ(義政)
  9. よしひさ(義尚)
  10. よしたね(義稙
  11. よしずみ(義澄)
  12. よしはる(義晴)
  13. よしてる(義輝)
  14. よしひで(義栄)
  15. よしあき(義昭)

 

室町幕府は江戸幕府と違って、将軍が群を抜いて強力だったわけでなく、有力守護大名の勢力バランスを基盤としていました。

 

ですから、うえで見たように暗殺された将軍も多く、京都に入れなかったものいて、将軍の地位が安定していたとはいえません。

 

また、将軍位の浮沈、継承者の移動が激しく、系図で覚えていくのは難しいです。

 

ですので、将軍の勢威の強弱に関わる歴史的事件の節目で、まずは6代将軍までと大まかに区切って、それから7代~15代の将軍を覚えましょう。

 

なお、足利将軍は初代の尊氏を除いて、すべて最初に「義」がつきますので、義の後の字を読み方とともに記憶しておくことを心がければ大丈夫です。

 

【室町幕府の将軍の語呂合わせ】簡単!歴代将軍の覚え方

室町幕府の将軍の語呂合わせ①

尊詮満持量教、勝政尚稙澄晴輝栄昭

(うじ・あきら・みつ・もじ・かず・のり、かつ・まさ・ひさ・たね・ずみ・はる・てる・ひで・あき)

 

尊氏以外の将軍は2字目だけを並べています。漢字のお経と思って口ずさんで覚えましょう。

 

室町幕府の将軍の語呂合わせ②

明日秋満つ。モカの釜ヒタヒタね、澄んで晴れてる、ひでー秋。

 

→あした(足利尊氏)あき(義詮)みつ(義満)。モ(義持)カ(義量)の(義教)か(義勝)ま(義政)ヒ(義尚)タヒタね(義稙)、すんで(義澄)は(義晴)れてる(義輝)、ひで(義栄)ーあき(義昭)。

 

これも長いですが、ラップのような感じで口ずさんで覚えましょう。

 

室町幕府の将軍の語呂合わせ③

尊いあきらめ、まんじゅう持って、はかりにのり、かつ、まさしく久しぶりに訪ねてみれば、すみかの晴れてる日の出は明るい

 

→尊いものは(尊氏)あきらめて(義詮)、まんじゅう(義満)もって(義持)、かず多くのはかりに(義量)のり(義教)、かつ(義勝)まさしく(義政)ひさしぶりに(義尚)訪ねてみれば(義稙)、すみかの(義澄)晴れ(義晴)てる(義輝)日の出は(義栄)あかるい(義昭)

 

多少、強引で全体が長くても、少しずつ意味のある短文にして覚えましょう。

 

室町幕府の歴代15代将軍の詳細

(初代将軍の足利尊氏 出典:Wikipedia)

 

 

① 初代将軍の尊氏(たかうじ)は1338年、念願だった征夷大将軍に任命されました。

ただし、実際の幕府政治は、1336年に建武式目を定めて幕府の基本的政策を表明し、主要な政治機関を設置したときに開始されています。

 

 

② 2代将軍は義詮(よしあきら)、尊氏の子です。

尊氏派と直義(尊氏の弟でで政務担当)派が争った観応の擾乱では、尊氏のために政務を執り、尊氏政権の確立に貢献しました。

 

③ 3代将軍は義満(よしみつ)、義詮の子です。

幼少時には有力守護たちの争いのために苦労しましたが、実権を握ると将軍権力の絶対化を志向し、守護大名の勢力を抑える政策を実行しました。対明貿易も独占して、この時期に室町幕府の権力が確立されます。将軍職を子に譲ったあと太政大臣になり、実質的な権力を保持し続けました。室町時代前期に開花した北山文化、その代表である金閣は皆さんもよくご存知でしょう。

 

④ 4代将軍は義持(よしもち)、義満の子です。

父の義満が実権を握り続けていたため、義満死去までは名ばかりの将軍でした。しかし、義満の死後、晩年に溺愛されていた異母弟の義継(よしつぐ)を殺害するなどして権力を集中します。義持は日明外交貿易を中止したりしましたが、幕府は最盛期を迎えました。

 

⑤ 5代将軍は義量(よしかず)、義持の子です。

父の義持は出家したあとも実権を掌握していたせいか、不健全な生活に溺れ18歳で亡くなってしまいます。このため、4代義持が還俗しないまま将軍代理、実質的な将軍として政治をみました。

 

⑥ 6代将軍は義教(よしのり)、3代義満の子、4代義持の同母弟です。

将軍代理であった4代義持の死後、幕府の有力家臣たちの合議によってクジで選ばれた将軍です。しかし、だんだんと将軍専政の姿勢を強め、意に沿わないものは誰でも厳しく処断するようになりました。このため、危機感を懐いた播磨国守護赤松満祐によって暗殺されてしまいます。これが、1441年の嘉吉の変です。この事件は将軍の権力と権威を失墜させ、有力守護の動静により政治が左右される室町幕府のあり方にとって、大きな転機になりました。

 

⑦ 7代将軍は義勝(よしかつ)、義教の子です。

父の義教が暗殺されて8歳で家督を継ぎ、翌年、9歳で将軍となりましたが、病気のため在位8ヶ月で亡くなりました。

 

⑧ 8代将軍は義政(よしまさ)、6代義教の子、7代義勝の弟です。

この時期は、地方における国人間の対立の激化、飢饉の頻発、徳政一揆、さらに中央における有力武家の内紛など、室町幕府の根幹を揺るがすような混乱が生じていました。また義政は、最初、後継者に弟の義視(よしみ)を指名したのですが、夫人である日野富子が義尚を生むと、将軍職をめぐって両者の対立が生じました。これらの諸事情が結びついて、1467年に始まったのが応仁の乱です。義政はこの争乱に背を向け、東山に隠棲して趣味に生きることを選びます。しかし、これによって、茶、連歌、能、生け花など現在の日本文化を形づくったといわれる東山文化が花開いたのもたしかです。皆さんも、その象徴である銀閣はご存知でしょう。

 

 

⑨ 9代将軍は義尚(よしひさ)、義政の子です。

応仁の乱の最中に9歳で将軍となりましたが、ずっと名目だけの将軍でした。父の義政が隠棲して、はじめて実権を握り、将軍権力の強化に乗り出しました。しかしこれは、管領の細川政元との対立を招き、自分自身の不健全な生活もあって、25歳で出陣中に死去しました。

 

⑩ 10代将軍は義稙(よしたね)、8代義政の弟である義視の子です。

義尚が陣中で死亡したため、日野富子たちの助力で将軍になりました。義尚にならって将軍権力の強化に乗り出したのですが、同じように細川政元と衝突することになり、1493年、将軍から追われました(明応の政変)。しかし、有力守護である大内氏を頼り、大内氏や政元の養子である髙国などの援助で1508年に将軍に復帰します。ところが、髙国との対立から京都を逃れ、またもや将軍位を失いました。このため、「流れ公方」などと呼ばれました。

 

⑪ 11代将軍は義澄(よしずみ)です。

義澄は足利将軍家の出身でなく、堀越公方家から将軍になりました。本来は将軍職に就ける立場でなかったのですが、明応の政変で細川政元に擁立されました。しかし、10代義稙が復帰することによって、将軍の地位から追われ近江国で亡くなりました。

 

⑫ 12代将軍は義晴(よしはる)、義澄の子です。

近江国で生まれ、11歳で将軍になりましたが、擁立してくれた細川髙国自身の権力基盤が脆弱で、義晴も京都と近江との往復に明け暮れる日々でした。

 

⑬ 13代将軍は義輝(よしてる)、義晴の子です。

もう戦国時代の人になります。戦国大名間の争いのなかで将軍として三好長慶に対抗し続け、ついには長慶の死後、松永秀久たちよって30歳で暗殺されてしまいました。

 

⑭ 14代将軍は義栄(よしひで)、義晴の甥です。

三好三人衆によって擁立されましたが、松永氏と三好氏の争いのために、1568年、ようやく摂津国で将軍になりました。しかし、そのあとも最後まで京都には入れませんでした。

 

⑮ 15代将軍は義昭(よしあき)、12代義晴の子、13代義輝の弟です。

興福寺で門跡となっていましたが、兄の義輝が暗殺されてから京都を脱出し、各地の大名を頼って幕府の復興を目指しました。1568年、織田信長に迎えられてともに入京し、将軍になりました。その後、反信長の包囲網を作ろうと有力な戦国大名に働きかけましたが、1573年、信長によって将軍職から追われ、室町幕府は滅亡した、と見られるようになりました。ただし、義昭は、形式上、豊臣秀吉に臣従する1588年までは将軍でした。

 

 

以上、室町幕府の将軍の語呂合わせでした!

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