1185年に、武士である源頼朝によって成立した鎌倉幕府。

 

しかし、時代を経るにつれて鎌倉幕府の運営に暗雲が立ち込めます。

 

14世紀になると、鎌倉幕府への不満はますます高まり、正中の変、元弘の変という討幕計画が企てられます。

 

今回はこの正中の変、元弘の変の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

正中の変と元弘の変とは?

(後醍醐天皇 出典:Wikipedia

 

 

正中の変(1324年)、元弘の変(1331年)とは、後醍醐天皇とその側近が、2度にわたって鎌倉幕府を倒そうと計画しておこった事変です。

 

13世紀後半の2度の元寇(1274年「文永の役」、1281年「弘安の役」)で元軍を追い払ったのに、恩賞がもらえなかった御家人は幕府への不満を募らせていました。

 

 

そして、14世紀、鎌倉幕府の執権であった北条高時は政治を部下に任せて道楽に興じ、部下は自分勝手に政治を行ったため、治安は悪化し世は乱れていました。

 

このように、14世紀初頭は鎌倉幕府の統治に対して不満が渦巻いていました。

 

1318年に即位した後醍醐天皇は、政治に大きな関心を持っていました。

 

幕府の悪政で世が乱れているのを憂い、側近たちと討幕計画を立てます。

 

1324年に、後醍醐天皇と側近の日野資朝(ひのすけとも)らが中心となって、正中の変と呼ばれる第一回討幕計画を企てます。

 

 

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(日野資朝 出典:Wikipedia)

 

 

幕府に不満を抱いている京都や地方の武士と密かに接触して、幕府の京都出張所である六波羅探題を襲撃する計画を立てます。

 

しかし、この計画は実行前に幕府側に露見しました。幕府は天皇を処罰するのをためらって穏便に事を収めます。

 

日野資朝は佐渡へ流罪となりますが、他の者はごく軽い処罰、後醍醐天皇はお咎めなしとなりました。

 

そして7年後の1331年に後醍醐天皇によって2度目の討幕計画が立てられます。これが、元弘の変です。

 

今度は僧兵を抱える寺院勢力を討幕計画に引き入れようとします。幕府を倒すための祈祷も行われました。

 

しかし、この2度目の討幕計画も幕府に知られてしまい、さすがに軽い罪で済ますことはできず、首謀者は死刑、1332年に後醍醐天皇は隠岐へ流罪となりました。

 

 

(山中をさまよう後醍醐天皇 出典:Wikipedia)

 

 

後醍醐天皇が中心となった2度の討幕計画はどちらも失敗。

 

しかし、後醍醐天皇の討幕決意は変わらず、13332月に隠岐を脱出します。

 

そして、同年5月に足利尊氏らとともに六波羅探題を攻め落とします。

 

そして、続く戦いで北条氏の主だった者を自害に追い込み、鎌倉幕府は滅亡しました。

 

 

 【正中の変&元弘の変の語呂合わせ】年号(1324/1331年)の覚え方!

正中の変&元弘の変の語呂合わせ①

討幕の秘密、知る(1324)、正中の変。

 

天皇一味災(1331)難、元弘の変。

 

正中の変で、鎌倉幕府は討幕の秘密を知っていました。後醍醐天皇の第3皇子・護良(もりよし)親王は殺されて、後醍醐天皇は隠岐に流された元弘の変は天皇家にとって災難でしたね。

 

正中の変&元弘の変の語呂合わせ②

父さんつよい(1324)の?正中の変。

 

父さん災(1331)難、元弘の変。

 

1度目の討幕計画・正中の変で戦った誰かのお父さんは強かったのでしょうか。でもたくさんの人が死罪になった2度目の討幕計画・元弘の変は災難でした。

 

正中の変&元弘の変の語呂合わせ③

怪しい人見(13)て通報(24)、正中の変。

 

い(1)や、み(3)んな災難(31)だったね、元弘の変。

 

怪しい動きをしていた後醍醐天皇など側近の人を見て、幕府に通報されたことで正中の変での討幕は失敗します。そして、元弘の変では死罪の人もたくさんいてみんな災難でした。

 

 

正中の変&元弘の変の語呂合わせでした!

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