【壇ノ浦の戦いの覚え方】年号(1185年)の語呂合わせを紹介!【おすすめ5選】

 

平治の乱で後白河上皇側について源義朝を討った平清盛は、1167年に太政大臣となります。

 

 

1181年に平清盛が死去すると平氏打倒の勢いは止められなくなり、挙兵した源頼朝らが平氏を追いつめて壇ノ浦の戦いがおこりました。

 

今回はそんな壇ノ浦の戦いの概要・覚え方(語呂合わせ)をご紹介します。

 

壇ノ浦の戦いとは?

(壇ノ浦の戦い「安徳天皇縁起絵図」 出典:Wikipedia)

 

 

壇ノ浦の戦いとは、1185年に長門国赤間関壇ノ浦(現在の山口県下関市)でおこった、源氏と平氏の最終決戦のことです。この戦いで平氏は滅亡しました。

 

壇ノ浦の戦い以前の1180年から1185年におこった源氏と平氏の戦いは「治承・寿永の乱」、また一般的には「源平合戦」といいます。

 

合戦の経緯は以下のとおりです。

 

合戦の経緯

 

1180年 後白河天皇の次男・以仁王(もちひとおう)と源頼政が全国の源氏に呼び掛けて打倒平氏で挙兵→失敗して、以仁王は戦死。その後各地で源氏が挙兵

 

1180年 富士川の戦いで源頼朝が平氏軍に勝利

 

1181年 平清盛死去

 

1183年 俱利伽羅峠(くりからとうげ)の戦いで源義仲が平氏軍に勝利

 

1184年 一の谷の戦いで源義経が平氏軍に勝利

 

1185年 屋島の戦いで源氏が平氏に勝利

 

1185年 壇ノ浦の戦いで源氏が平氏に勝利。平氏滅亡

 

 

海上での戦闘は源氏が水軍830隻、平氏が500隻。結果的に源氏が勝ち、負けた平氏の多くは戦死、もしくは自ら海に身を投じました。

 

平氏が連れていた6歳の安徳天皇も母や祖母とともに海中で死去。安徳天皇の母、建礼門院だけは熊手にかき寄せられて命を助けられましたが、平氏の総大将・平宗盛(むねもり、清盛の三男)は捕らえられたのち、処刑されました。

 

平氏を滅ぼした源氏の棟梁・源頼朝は、京の朝廷とは違った武家政権である鎌倉幕府をつくります。

 

1192年に頼朝は征夷大将軍に任命されました。

 

最近では、壇ノ浦の戦いで平氏を葬った1185年が鎌倉幕府のはじまりといわれています。

 

【壇ノ浦の戦いの覚え方】年号(1185年)の語呂合わせ

壇ノ浦の戦いの語呂合わせ①

いいや(118)~、こ(5)まった、平家滅亡

 

壇ノ浦で平氏は滅亡してしまいました。平氏一門は困ったでしょうね。

 

壇ノ浦の戦いの語呂合わせ②

いいやこ(1185)れまで、壇ノ浦

 

平氏も壇ノ浦でもはやこれまでとなりました。

 

壇ノ浦の戦いの語呂合わせ③

いいや(118)~、ご(5)覧なされ、鎌倉幕府

 

平氏が滅亡して、源頼朝による鎌倉幕府がはじまりました。

 

壇ノ浦の戦いの語呂合わせ④

平氏のひとびと(11)やっ(8)ぱり号(5)泣、壇ノ浦

 

壇ノ浦でたくさんの平氏の人々が海に飛び込んで死んでしまいました。きっとみんな号泣していたことでしょう。

 

壇ノ浦の戦いの語呂合わせ⑤

いいや!(118)ご(5)立派!壇ノ浦

 

壇ノ浦で平氏を滅ぼした源氏軍はご立派でした。

 

 

以上、壇ノ浦の戦いの語呂合わせでした!

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