平安時代末期におこった保元の乱(1156年)では武士が戦闘で活躍します。

 

その3年後、保元の乱後の処遇に不満を抱いた武士の源義朝を中心に争いがおこり、同じく武士の平清盛によって沈められました。この一連の騒乱を平治の乱といいます。

 

平治の乱の後、平清盛は貴族中心の朝廷で発言権を増していきます。

 

今回は、そんな貴族にかわって武士が政治を支配する契機となる『平治の乱』の語呂合わせとその概要についてご紹介します。

 

平治の乱とは?

(平治の乱「三条殿焼討」 出典:Wikipedia)

 

 

平治の乱の前には保元の乱がおこっていました。

 

保元の乱は、1156年 兄・崇徳上皇(藤原頼長、平忠正、源為義)と弟・後白河天皇(藤原忠道、信西、平清盛、源義朝)が朝廷政治の実権を争っておこった戦乱のことを言います。

 

 

弟の後白河天皇が勝利し、兄の崇徳上皇は讃岐へ流されました。

 

保元の乱の勝利後、後白河天皇は上皇となり二条天皇(後白河天皇の皇子)に譲位します。そして後白河上皇の側近である藤原信西(ふじわらのしんぜい)が恩賞を取り仕切りました。

 

信西の妻は後白河天皇の乳母。信西は平清盛に恩賞を厚くします。

 

これに源義朝は強い不満を抱き、信西と敵対していた藤原信頼(ふじわらののぶより)と手を組んで、信西を武力で排除しようとします。

 

そして、1159年に平治の乱がおこります。

 

まず、平清盛が熊野詣でで京を留守にしている間に、源義朝+藤原信頼は軍勢を率いて御所を襲撃。後白河上皇と二条天皇を幽閉し、信西を自害に追い込みます。

 

その後、京へ戻った平清盛は策をつかって二条天皇を救出。二条天皇は源義朝+藤原信頼を追討する宣旨を出します。

 

二条天皇のお墨付きで官軍となった平清盛は、源義朝らと京の六条河原のあたりで戦い、平清盛が優勢となり義朝と信頼は逃走します。

 

その後、義朝は部下の裏切りで殺害、信頼は斬首。義朝の息子である源頼朝は伊豆へ流罪となりました。

 

平治の乱が平清盛の勝利で終わると、武士の棟梁でライバルの源氏は衰退し、貴族の政敵もいなくなります。

 

そして、平清盛は太政大臣になり(1167年)、平氏が朝廷政治を牛耳るようになりました。

 

【平治の乱の語呂合わせ】年号(1159年)の覚え方

平治の乱の語呂合わせ①

いちいちご苦(1159)労、清盛さん

 

平清盛は熊野から京に帰ってすぐ、二条天皇を救ったり戦ったりでご苦労しました。その後、平氏は繁栄して十分報われましたね。

 

平治の乱の語呂合わせ②

天皇といい呼吸(1159)あわせた平治の清盛

 

清盛は、天皇から義朝&信頼追討の宣旨をもらったので、平治の戦いで有利にたちました。

 

平治の乱の語呂合わせ③

人々ご苦(1159)労、平治の乱

 

保元の乱で京は争いの舞台になります。やっと戦闘が終わったとおもったら3年後に平治の乱がまた京で起きてしまいました。

 

平治の乱の語呂合わせ④

恩賞でいちいち号泣(1159)平治の乱

 

保元の乱の恩賞で報われなかった源義朝は大号泣したのでしょうか。怒りで平治の乱がおこってしまいました。

 

平治の乱の語呂合わせ⑤

平治の乱でいいご苦(1159)労、いい禄(116)になっ(7)た平清盛

 

平治の乱で勝利した平清盛。太政大臣といういい禄をもらって平氏は繁栄します。

 

 

以上、平治の乱の語呂合わせでした!

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