
自由民権運動が発展していく大きな原動力となったのが数々の政治結社や政治団体でした。
今回は後の自由党誕生のきっかけとなる「国会期成同盟」の概要・設立年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。
目次
国会期成同盟とは?
国会期成同盟とは、1880年(明治13年)に設立された国会開設を求める運動の全国的な団体の呼称です。
代表者は片岡健吉と河野広中で「国会開設を実現させるまでは団体を解散しない」という信念のもと活動を始めました。
◆国会期成同盟の活動
国会期成同盟は結成後すぐに2府22県8万7千人余りが署名した「国会開設請願書」を政府に提出しましたが、「国会開設請願書」を政府が取り上げることはありませんでした。
むしろ急進的な活動を取り締まるための「集会条例」が1880年に公布され集会や結社の自由を厳しく規制するようになります。
しかしながら、政府が言論弾圧を強めるほど人々の間に自由民権派の考えが広がるという皮肉な結果を招きました。
◆国会期成同盟のその後
開拓使官有物払い下げ事件や国会開設に対する政府内の対立(伊藤博文VS大隈重信)が深まったりする中で世論はますます自由民権派に傾いていきます。
そうした状況を打開するためについに政府は1881年、10年後の国会開設を約束する旨の「国会開設の勅諭」を発表します。
これにより国会期成同盟設立の主たる目的であった国会開設は果たされることになり同盟は解散することになりました。
【国会期成同盟の語呂合わせ】年号(1880年)の覚え方!
国会期成同盟の語呂合わせ①
いや(18)晴れ(80)ばれと成し遂げたい国会開設
国会期成同盟の期成とは「物事を成し遂げようとする固い決意」という意味です。
国会期成同盟の語呂合わせ②
国会期成同盟の一派(18)晴れ(80)てお披露目
自由民権運動は士族中心から豪農や地方議員、一般の民衆へと広がっていきました。
国会期成同盟の語呂合わせ③
土佐の人(1)が幅を(880)利かせて国会期成同盟
土佐の人=板垣退助がいなければ自由民権運動という言葉さえ日本の歴史上になかったかもしれません。
国会期成同盟の語呂合わせ④
人は派を(1880)組んで国会開設を目指す
国会期成同盟の活動を機にその後さまざまな政党や政治結社、団体が生まれました。
国会期成同盟の語呂合わせ⑤
開設までは、いや(18)でも歯を(80)食いしばろう!
1880年に出された集会条例でひどい目に遭った人も多かったはずですが志を叶えるまでは、と仲間同士で支え合ったのでしょうね。
以上、国会期成同盟の年号の語呂合わせでした!
CHECK!!
◎国会期成同盟が設立されるまでの流れ
国会期成同盟の設立には「愛国公党」「立志社」「愛国社」が深く関係していますので流れを覚えておきましょう!
①1873年明治政府内で征韓論争に敗れた西郷隆盛、板垣退助、江藤新平らが下野する。
故郷に戻った彼らは新政府に不満を持つ士族のリーダー的存在となる。
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②板垣退助は論争による政府への対抗を決め1874年に東京で「愛国公党」を結成し政府に「民選議院設立建白書」を提出、自由民権運動の口火を切る。
一方、武力で対抗しようとした江藤進平は1974年佐賀の乱で刑死、1877年西南戦争では西郷隆盛が戦死し武力での争いは終結する
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③1974年「愛国公党」が解散した後に板垣退助は故郷の土佐に士族を中心とした「立志社」を設立。
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④1875年大阪に立志社を中心とした「愛国社」が結成されるが同年の大阪会議後に板垣退助が政府に復帰し事実上解散する。
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⑤1878年大阪で愛国社再興大会が開催される 士族だけではなく地方の豪農も参加。
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⑥1880年大阪で行われた愛国社第4回大会で「国会期成同盟」と改称。