江戸時代末期、諸外国が開国を求めて日本に来航するようになりました。
江戸幕府は、1854年から翌年にかけてアメリカを始めとする各国と和親条約を結び、さらに1858年、日米修好通商条約を締結します。
幕末時期の外国との対応は、国内で難しい問題を引き起こしました。
なかでも、日米修好通商条約の調印をめぐって大きな政治問題が起こります。「安政の大獄」です。
これは近代日本への歩みを考えるためにとても重要です。
今回はそんな安政の大獄の覚え方についてご紹介します。
まずその前に安政の大獄とはどんな事件だったのか、おさらいしましょう!
目次
安政の大獄とは?
(井伊直弼 出典:Wikipedia)
「安政の大獄」とは、1859年(安政6年) 大老井伊直弼が条約勅許問題に関して、反対派を大量に処罰した事件のことです。
江戸時代後期には、鎖国政策が当時の国際環境に相応しくないものになっていました。幕府は外国との関係を調整するために、朝廷や諸大名の意見を聞くようになっていました。
日米修好通商条約についても、幕府は朝廷の許可(勅許)を得ようと働きかけていましたが、アメリカ駐日総領事ハリスの圧力などもあり、井伊直弼は勅許無しで調印しました。
これが大きな問題になったのは、開国か攘夷かの問題に関する立場の違いに加えて、13代将軍徳川家定の跡継ぎをめぐる幕閣内部の争いも伏線になっています。
幕府中枢部では、1857年に堀田正睦が老中として実権を掌握します。
堀田正睦は開国政策をとり、これに賛同する大名の一人に井伊直弼がいました。
この開国派を支える中心勢力は譜代大名です。ペリー来航を機に、攘夷派の親藩家門大名、有力外様大名である徳川斉昭、松平春嶽、島津斉彬たちとの対立が激しくなります。
この対立をさらに深刻化する問題が生じました。
それは、虚弱な13代将軍徳川家定に子がないため、将軍継嗣を誰にするかという問題です。
(徳川 家定 出典:Wikipedia)
幕末期の困難な諸問題に幕府権力を強化することで当たろうとしたのが、14代将軍に紀州徳川家の慶福を推す諸代大名たちの南紀派であり、聡明を謳われた一橋慶喜を将軍にしようとする斉昭、春嶽、斉彬たちと対立します。
後者は一橋派といわれ、有力諸藩と合議を進めながら政治をおこなってこそ難局を乗りこえられると主張していました。結局、この対立は、南紀派の井伊直弼が大老になることで決着がつき、14代将軍徳川家茂(慶福)のもとで政治の実権を握ったのです。
ですが、勅許無しの条約調印への批判は激しくなっていきます。
これに対して、1858年から井伊直弼は強硬な弾圧策をとりはじめます。反対派大名や公家には隠居、1859年には橋本左内や吉田松陰などの尊皇攘夷思想をもった人たちを死刑にしたのです。
ただし、安政の大獄はこれで終わったわけでありません。弾圧に憤った水戸藩脱藩浪士などによって、1860年、井伊直弼は桜田門外で暗殺されることになります。(桜田門外の変)
【安政の大獄の覚え方】年号(1859年)の語呂合わせ
安政の大獄の語呂合わせ①
一派(18)が獄(59)へ、安政の大獄
尊王攘夷派の志士だけでなく、反井伊政権の有力大名や公家もまた、獄につながれることはなかったものの、処罰されたことから「いっ(1)ぱ(8)がご(5)く(9)へ」と覚えましょう。
安政の大獄の語呂合わせ②
有無を言わ(18)せず獄(59)中へ、安政の大獄
こちらも①と同様の意味で、有無を「い(1)わ(8)せずご(5)く(9)ちゅうへ」で覚えましょう。
安政の大獄の語呂合わせ③
尊攘の愛(1)は(8)酷(59)な扱い安政の大獄
大名や公家以外の、武士や浪人、尊皇攘夷思想をもった人たちが大量に死罪となったことに関わらせて「あい(1)は(8)こ(5)く(9)」な扱いと覚えましょう。
安政の大獄の語呂合わせ④
圧政が 嫌(18)で号泣(59)、安政の大獄
反対派を徹底して弾圧した井伊政権の政策を考えて「い(1)や(8)でごう(5)きゅう(9)」と覚えましょう。
安政の大獄の語呂合わせ⑤
いや(18)ゴックン(59) 息を呑む安政の大獄
過酷な弾圧に「い(1)や(8)ごっ(5)くん(9)」と息を呑むと覚えましょう。
安政の大獄の語呂合わせ⑥
いっぱい(18)ゴクゴク(59)、安政の大獄
安政の大獄の語呂合わせ⑦
いっぱい(18)獄(59)に入れられた安政の大獄
安政の大獄の語呂合わせ⑧
一発(18)告ろう(59)、安政の大獄
以上、安政の大獄の語呂合わせでした!