7世紀後半、大化の改新を終えた日本はいよいよ本格的な律令国家へと進んでいきます。
今回は律令国家を内外に広くアピールすることになった「藤原京遷都の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)」についてご紹介します。
目次
藤原京遷都とは?
(藤原宮 大極殿跡 出典:Wikipedia)
藤原京遷都とは、飛鳥時代の694年に持統天皇が飛鳥浄御原(きよみはら)宮から藤原京へ都を移したことを言います。
(※持統天皇・・・日本の41代目の天皇で40代目の天皇であった天武天皇の皇后。夫である天武天皇の没後690年に即位しました)
持統天皇の政治的功績には代表的なものが2つあります。
1つめは天武天皇が編集を始めていた「飛鳥浄御原律令」の制定と施行です。
飛鳥浄御原律令は後の「大宝律令」の基礎になったとされる法典です。刑法(律)はなく行政法(令)だけがほかの書物により断片的に復元されていますが現存する原本がなく詳細は不明です。
そして2つめが日本で最初の都城である藤原京の造営と遷都です。
◆藤原京とはどのようなものだったのか?
藤原京は唐の長安をモデルにして作られた日本で最初の本格的な都です。
現在の奈良県橿原市にあり周囲を天香具山・畝傍山・耳成山に囲まれていました。
藤原京は東西5,3㎞、南北4,8㎞、十条十坊に及ぶ巨大都市で「条坊の制」により区画されていたことが近年の発掘調査により解明しています。
*条坊の制:市街地を東西、南北に通じる道路によって区画する古代の都城制度のこと
(藤原京条坊 出典:Wikipedia)
藤原京には天皇の住まいである内裏、天皇が儀式を行う大極殿(だいごくでん)、官人が政治を行う朝堂院(ちょうどういん)などがあり豪族たちの住まいもありました。
藤原京は平安京に遷都(710年)されるまでの16年間、持統・文武・元明と3代の天皇を支えました。
◆藤原京の意味
それまで中国での日本の呼び名は「倭・倭国」という蔑称であり日本自身は「大倭(やまと)」と称していました。
また天皇の呼び名は「王・大王」でした。
それが飛鳥浄御原律令の頃から国号は「日本」、そして王は「天皇」という称号を用いるようになります。
この国号や称号の変更は天武天皇が取り組んでいた律令国家建設の一端とされています。
さらに持統天皇が造り上げた藤原京は律令国家としての体裁を整えたことを国の内外へアピールする絶好の場となりました。
【藤原京遷都の語呂合わせ】年号(694年)の覚え方!
藤原京遷都の語呂合わせ①
労苦(69)し(4)んどい藤原京
ちょっと想像がつかないほどの巨大都市ですから作業された方はさぞや苦労が多かったことでしょう。
藤原京遷都の語呂合わせ②
無(6)理だ苦し(94)い藤原京
この時代にはすでに身分制度がありほとんどの作業は奴婢が担わされていたのではないかと思われます。
藤原京遷都の語呂合わせ③
持統天皇、ロック(69)呼んで(4)よ藤原京
巨大都市でしたから巨大ロックフェスも余裕で開催できたのでは?
藤原京遷都の語呂合わせ④
むくよ(694)柿の葉、藤原京
藤原京のあった奈良県の名物といえば柿の葉寿司です。とはいえ柿の葉寿司ができたのは江戸時代、飛鳥時代からずっと後のことなのですけれど。
藤原京遷都の語呂合わせ⑤
山麓(6)よく(49)見える藤原京
藤原京からは奈良の三山(天香具山・畝傍山・耳成山)の美しい山並みが一望できたでしょうね。
以上、藤原京遷都の語呂合わせでした!
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