【鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ】年号(1333年)の覚え方を紹介!【おすすめ5選】

 

150年続いた鎌倉幕府の後半は、2度のモンゴル帝国の襲来による財政の悪化と共に御家人たちが窮乏して行きました。

 

2度の倒幕計画に失敗した後、幕府の衰退に便乗して後醍醐天皇は、1333年に鎌倉幕府を滅亡させました。

 

今回はそんな鎌倉幕府滅亡の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

鎌倉幕府滅亡までの流れ

(後醍醐天皇御像 出典:Wikipedia

 

 

1274年、モンゴルは国号を元に改名し、北九州に襲来しました。(文永の役)

 

 

鎌倉武士の抵抗でいったんは撤退しますが、1281年に再び九州地方に襲来。しかし、元軍に台風による被害が出たことや迎え撃った日本軍の攻撃で元軍は滅ぼされました。(弘安の役

 

 

こうして戦いには勝った鎌倉幕府ですが、膨大な費用がかかり幕府は財政危機に陥り、御家人たちの戦での手柄に対する褒美を与えることができませんでした。

 

1297年に永仁の徳政令を制定し、高利貸しに対して御家人たちの売りに出した土地などを返還させるようにしました。

 

 

けれども、御家人に貸すことにメリットが無くなった高利貸しは融資をしなくなり、悪循環に陥り御家人たちの不満は募ります。

 

そんな中、1318年に即位した後醍醐天皇は、鎌倉幕府の衰退に便乗し1324年に幕府を倒そうと正中の変を起こします。

 

この時は処罰はされませんでしたが、1331年に2度目の倒幕計画である元弘の変が事前に発覚し隠岐島へ流されました。

 

 

しかし、幕府の政策に不満を持つ各地の武士は、反幕勢力となり争いを起こします。

 

1333年には反幕勢力の討伐に派遣されていた足利尊氏が後醍醐側へ寝返り、倒幕の戦いに挑むことになります。

 

その他の軍勢も最終的に鎌倉を攻め落とし、鎌倉幕府は存続できなくなり滅亡に追いやられました。

 

鎌倉幕府滅亡後、後醍醐天皇は自らが行う新政策「建武の新政」を開始します。

 

 

朝廷政治の復活を願って起こした政策ですが武士達からの賛同は得られず、1336年足利尊氏が離反したことにより崩壊しました。

 

【鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ】年号(1333年)の覚え方!

鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ①

鎌倉幕府、悲惨(13)な財政、ササ(33)と逃げる

 

幕府の財政難に御家人も逃げ出しました。

 

鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ②

元寇で幕府の遺産(13)は散々(33)だ

 

2回のモンゴル襲来で財政危機が訪れました。

 

鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ③

新田義貞一味(13)の勝利、御家人の耳(33)に入る

 

幕府が倒れたと知ったとき、武士は何を思ったのでしょうか。

 

鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ④

いざ(13)鎌倉へさざ(33)波のように!

 

兵士の大群は小さな泡のようだったかもしれません。

 

鎌倉幕府滅亡の語呂合わせ⑤

勇(13)んで出陣燦燦(33)と輝く

 

勝利を収めて光り輝いていたでしょう。

 

 

以上、鎌倉幕府滅亡の語呂合わせでした!

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