【日米修好通商条約の語呂合わせ】年号(1858年)の覚え方を紹介!【おすすめ6選】

 

江戸時代の末期、日本はペリーの来航によって鎖国体制が崩され、世界の列強国と国交を持たねばならなくなりました。

 

さらに国力の差から、日本は自国にとって不利な条約を結ばざるを得ませんでした。

 

今回は、そんな不平等条約といわれる1858年に結ばれた日米修好通商条約の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

日米修好通商条約とは?

(アメリカの海軍船 出典:Wikipedia

 

 

日米修好通商条約とは1858年に、日本とアメリカの間で結ばれた通商条約のことです。

 

1854年にペリーの来航で結ばれた日米和親条約によって、日本で初めての総領事としてハリスは下田に赴任しました。

 

アメリカ側は通商条約の締結に積極的でしたが、日本側は消極的な態度でした。

 

しかしアメリカの強硬な態度に押され、通商条約締結反対だった孝明天皇の勅許を得られぬまま、幕府は1858年、日米修好通商条約を締結しました。

 

アメリカ側の全権はハリスでした。

 

(タウンゼント・ハリス 出典:Wikipedia)

 

また日本側は、大老井伊直弼が、勅許を得ぬままの調印をしたことから、反対派や朝廷の反発をかいましたが、井伊直弼はその反対派を大量に処罰しました(安政の大獄)

 

1860年、結果的にその動きに激憤した尊王攘夷派の志士に、井伊直弼が桜田門で暗殺されるという事件もおこりました(桜田門外の変)

 

日米修好通商条約の内容は、函館・神奈川(のちの横浜)・長崎・新潟・兵庫(現在の神戸)の開港、江戸・大阪の開市、領事裁判権の設定、自由貿易、協定関税などを規定したものでした。

 

アメリカ側に領事裁判権を認め、日本に関税自主権がなかったことで、日本側に不利な不平等条約とされ、同様の内容の条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びました。

 

改正交渉は難航し、1894年に領事裁判権の撤廃、1911年に関税自主権の回復がなされるという大変遠い道のりとなりました。

 

【日米修好通商条約の語呂合わせ】年号(1858年)の覚え方

日米修好通商条約の語呂合わせ①

直弼一派(18)が硬派(58)に結んだ通商条約

 

実は大老井伊直弼自身は勅許を得ることにこだわったと言われていますが、結果的には安政の大獄につながってしまいましたね。

 

日米修好通商条約の語呂合わせ②

一夜(18)湖畔(58)で考えた、通商条約締結へ

 

考えたところで、日本の当時の国力ではどうしようもないことだったのかもしれませんね。

 

日米修好通商条約の語呂合わせ③

イヤ~(18)今晩(58)も考えすぎる通商条約

 

日米修好通商条約の語呂合わせ④

一番(18)こわ(58)い通商条約

 

日米修好通商条約の語呂合わせ⑤

嫌(18)だな、怖い(58)な通商条約

 

日米修好通商条約の語呂合わせ⑥

市場(18)でご飯(58)、日米修好通商条約

 

 

以上、日米修好通商条約の語呂合わせでした!

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