古墳時代末期、日本に仏教が正式に伝わりました。
それ以降、仏教は信仰の対象のみならず政治にも様々な影響を与えます。
今回は「仏教伝来の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)」についてご紹介します。
目次
仏教伝来とは?
仏教伝来とは、538年に百済の聖明王が日本の欽明王に仏像や経典を献上し仏教が伝えられたことを示す言葉です。
※以前は「仏教伝来」とされてきましたが近年では国家間同士の公的な経緯を表す「仏教公伝」が一般的になっており民間経由での場合などには「仏教伝来」を用いています。
◆仏教伝来とされる年代は2つある
仏教伝来には552年とする壬申年説と538年とする戊午年説があります。
552年とする壬申年説の出どころは「日本書紀」によるものですが記事の信頼性が低いことや当時の政治状況を考えると538年の戊午年説の方が有力とされています。
なお538年の戊午年説を裏づける資料としては元興寺(もと飛鳥寺)の由来や財産目録などが書かれた「元興寺縁起」や聖徳太子の伝記「上宮聖徳法王帝説」があります。
◆仏教伝来のルート
(仏教の東方伝播 出典:Wikipedia)
仏教は紀元前5世紀頃にインドで創始された宗教でアジアの各地に広がりました。
仏教の創始者シャカが亡くなると小乗仏教と大乗仏教の二派に分裂しました。
小乗仏教は主に東南アジアに広がったことから「南伝仏教」、大乗仏教は北方に広がったことから「北伝仏教」とも呼ばれています。
日本に伝わったのは北伝仏教で中国→百済→倭(日本)という当時の外交ルートによるものでした。
◆仏教伝来の影響
538年に百済の聖明王から欽明天皇へともたらされた仏教でしたが国内では当初、仏教に対して好意的であったとは必ずしもいえませんでした。
というのも日本では自然神や祖先に対する信仰が根づいていたこと、そしてそれらの神事を取り仕切る豪族の力が強かったこと、などがあるからです。
物部氏や中臣氏は仏教の受け入れに反対派、渡来人との関りが深かった曽我氏は受け入れ賛成派でした。
仏教の受け入れが本格化するのは587年に丁未の役で物部氏が滅亡した後の594年に推古天皇が「仏法興隆の詔(みことのり)」を出してからとされています。
とはいえ仏教はまだ皇族や豪族の間でのみ信仰されていたにすぎず一般の民衆に普及するまでにはしばらくかかりました。
【仏教伝来の語呂合わせ】年号(538年)の覚え方を紹介!
仏教伝来の語呂合わせ①
仏教伝来、ご参拝(538)に行く欽明天皇
天皇が仏像を拝む行為の可否について臣下の間でかなり意見が割れた、という記述が「日本書紀」に載っています。
仏教伝来の語呂合わせ②
公伝前に仏教の講座(53)は(8)受けた?
民間では6世紀に渡来した司馬達等が大和国で仏教に帰依していたという記録「扶桑略記」が残されています。
仏教伝来の語呂合わせ③
仏教伝来、誤算(53)は(8)豪族の対立
仏教のことがなくても曽我氏と物部氏はそもそも仲が悪かったといいますから仏教が勢力争いの口実にされたというのが正しいようです。
仏教伝来の語呂合わせ④
仏教伝来とはいえ公民は(538)まだ仏教になじみなし
仏教は公伝からしばらくの間、特権階級だけが信仰していました。
仏教伝来の語呂合わせ⑤
仏像を拝みたいけれど人ごみ(53)は(8)イヤだな
百済から金銅の釈迦如来像が献上されたとあります。残念ながら現存はしていないようですがどのようなお姿をされていたのでしょうね。
以上、仏教伝来の語呂合わせでした!