明治新政府の始まりとともに旧来の特権を失った士族たちの不満はやがて自由民権運動の波を全国へと広げていくことになります。

 

今回は自由民権運動のきっかけとなった「民選議院設立建白書の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)」についてご紹介します。

 

民選議院設立建白書とは?

(民撰議院設立建白書・序文 出典:Wikipedia

 

 

民選議院設立建白書とは、1874年(明治7年)に議院(国会)の設立を求めて明治政府の左院に提出された文書のことです。

(*左院:太政官制(三院制)の中にあった立法の諮問機関のこと)

 

「民選議院設立建白書」を提出したのは板垣退助、後藤象二郎、副島種臣、江藤新平らが結成した「愛国公党」でした。

 

◆内容

「民選議院設立建白書」には「天下の公儀を張るは民撰議院を立つるに在るのみ」という一文があります。

 

これは「政治に民意を反映させるには国会の開設以外にない」という意味です。

 

当時の明治新政府では要職を薩摩藩や長州藩出身の政治家が独占する「藩閥政治」が横行しており、富国強兵を掲げながらも実態は旧態依然とした政府の在り方は薩摩藩や長州藩出身以外の政治家や特権を失って生活に困窮する士族たちの間に大きな不満を生じさせていました。

 

民意を反映した国会を開くべきだというのが「民選議院設立建白書」の主張です。

 

しかし、この時の民意の対象は士族であり今のような国民全体の意見という意味での民意とはかなり違います。

 

ただし士族を中心に高まった国会開設などを含む自由民権運動はやがて地方議員や農民の間にも広がっていきました。

 

それゆえに「民選議院設立建白書」の提出は自由民権運動のきっかけとされているのです。

 

【民選議院設立建白書の語呂合わせ】年号(1874年)の覚え方!

民選議院設立建白書の語呂合わせ①

議院開設はいいはなし(1874)だと愛国公党

 

民撰議院設立建白書を出した日本初の政党・愛国公党ですが結成からわずか3か月ほどで解体となりました。

 

民選議院設立建白書の語呂合わせ②

イヤな世(1874)だから議院が必要

 

民撰議院設立建白書が出されたのと同じ1874年佐賀の乱が起こりました。佐賀の乱には愛国公党の江藤新平が参加し処刑されていますがこのことがきっかけで愛国公党は解体となりました。

 

民選議院設立建白書の語呂合わせ③

薩摩や長州の人(1)を離し(874)て議院開設

 

「藩閥政治」から「立憲政治」へのきっかけとなったのが民選議院設立建白書です。

 

民選議院設立建白書の語呂合わせ④

いや~(18)無し(74)にしたい民選議院設立建白書

 

政府は当初、完全に板垣らの要求を無視していました。

 

民選議院設立建白書の語呂合わせ⑤

人(1)のはなし(874)を政治に反映させたくて出した建白書

 

人とは政府に不満を持っていた士族たちのことです。板垣退助らは士族の不満をうまく取り込み自由民権運動が広がっていきました。

 

 

以上、民選議院設立建白書の提出年号の語呂合わせでした!

 

 

おまけ:民選議院設立建白書の結果

板垣らの愛国公党が提出した「民選議院設立建白書」を政府は無視します。

 

しかし、新聞や雑誌などでは議論が活発になりむしろ自由民権運動自体は盛り上がりを見せていきました。

 

そこで自由民権運動に対して危機感を覚えていた政府は1875年に板垣らと大阪で会議を開きます。

 

(*愛国公党は1874年には解体され板垣退助は同年故郷である土佐で「立志社」を結成、1875年には立志社を中心とした「愛国社」が大阪で結成されています)

 

政府は大阪会議の結果、徐々に立憲政体を樹立するという「漸次立憲政体樹立の詔」を出し政府への不満や要求を懐柔しようとしました。

 

その一方で新聞や雑誌に対しては言論弾圧を強め「新聞紙条例」や「讒謗律(ざんぼうりつ)」を出しました。

 

しかし弾圧が強まるほどに世論の国会開設への機運は高まり自由民権運動はますます活発になっていったのです。

 

 

 

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