1338年、足利尊氏が征夷大将軍となって室町幕府を開きます。
室町幕府は守護大名の合議制による連合政権だったので、将軍の権力基盤はあまり強くありませんでした。
また、守護大名の領国統治も守護代や家臣から強い影響を受けていました。家の相続方針も固まっていなかったため、家督争いがおきることもしばしばありました。
こうした中で、8代将軍・義政の後継者をめぐる争いから応仁の乱が始まります。
今回はそんな応仁の乱の概要と語呂合わせについて紹介します。
目次
応仁の乱について
(応仁の乱 出典:Wikipedia)
応仁の乱とは、室町幕府の8代将軍、足利義政の後継者争いを発端として1467年〜1477年の11年間に多くの人が東西軍に分かれて京都で争った戦乱のことです。
義政には子どもがいなかったため、僧であった弟の義視(よしみ)を還俗させて後継者としました。
しかし、その後に義政と正妻・日野富子(ひのとみこ)の間に息子・義尚(よしひさ)が誕生します。
将軍の弟・義視と将軍の息子・義尚のそれぞれに有力者が味方をして、後継者争いから長期の戦乱へと広がりました。
また、各家の家督争いに将軍や有力者が口出しすることもあり、全国各地で争いがおこりました。
下は、応仁の乱でのおもな対立図です。
開戦直前から1年後の1468年までと、1468年以降で、将軍家の足利義視(将軍の弟)と足利義尚(将軍の息子)が東西入れ替わっています。
このように、応仁の乱は敵味方が複雑に入れ替わって進みました。
また、室町幕府には三管領四職(さんかんれいししき)という要職があり、決められた家柄の者しか就くことができませんでした。
✔ 三管領・・・将軍の補佐役。畠山・細川・斯波の三家(足利家の一門)から交替で就任
✔ 四職・・・京都の治安維持を担当する侍所の所司。赤松・一色・京極・山名の四家
細川家と山名家は、幕府の実権をめぐって争い、三管領四職の他の家も巻き込んで争いが大きくなりました。
応仁の乱では、11年の長い騒乱で京都は荒廃し、幕府の権威は失墜しました。各地でも争いが広がり、戦国時代の発端となります。
【応仁の乱の覚え方】年号(1467年)の語呂合わせ
【年号の語呂合わせ①】
ひとのよ、むな(1467)しい応仁の乱。
人の世がむなしく思える応仁の乱。
【年号の語呂合わせ②】
いよ(14)いよ、むな(67)しい応仁の乱
応仁の乱が長く続いて、いよいよむなしい気持ちがこみ上げてきます。
【年号の語呂合わせ③】
一夜(14)の胸(67)騒ぎ、応仁の乱
応仁の乱、一夜の胸騒ぎで終わればよかったですね。
【年号の語呂合わせ④】
いよいよ(14)おもしろくな(67)い、応仁の乱
応仁の乱はいよいよおもしろくない展開になってきました。
【年号の語呂合わせ⑤】
ひとつよろ(146)めいて泣く、応仁の乱
ひとつのパーツが歪んでよろめいたことでみんなが泣いてしまう応仁の乱が始まってしまいました。
【応仁の乱の覚え方】東西軍の人物の語呂合わせ
【人物の語呂合わせ①】
東みて!長い芝とっとと刈って。西の山の角でひさしぶりによくなったよ。
東(東軍)み(視→義視)て!長(政長)い芝(斯波)とっとと(義敏)刈って(勝って→勝元)。西(西軍)の山(山名)のかど(義廉)でひさし(義尚)ぶりによくなった(よくなり→義就)よ。
【人物の語呂合わせ②】
長い年で東に細い川が見える。そのかどの西で山なりでしょう
長い(政長)年(ねん→とし→義敏)で東(東軍)に細い川(細川)が見える(義視)
そのかど(義廉)の西(西軍)で山(山名)なり(義就)でしょう(尚→義尚)
【人物の語呂合わせ③】
ことしは視聴率で勝ったぞ!かどについてなお、騒然!
ことし(敏→義敏)は視(義視)聴(長→政長)率で勝った(勝元)ぞ!
かど(義廉)について(就いて→義就)なお(尚→義尚)、騒然(宗全)!
【人物の語呂合わせ④】
山で練習はひさしぶり。長年、見てると勝てるよ
山(山名)で練(れん→廉→義廉)習(しゅう→就→義就)はひさしぶり(義尚)
長(政長)年(とし→敏→義敏)見てる(義視)と勝てる(勝元)よ
以上、応仁の乱の年号&人物の語呂合わせでした!