
明治時代、自由民権運動が徐々に活発でなったいったことから、1979年に山縣有朋は国会開設が必要だという旨の建議を提出します。
その後1881年、開拓使官有物払下げ事件が起こったことで大隈重信も早期国会開設を主張。同年、遂に明治天皇より国会開設の勅諭が出されました。
今回はこの国会開設の勅諭の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。
目次
国会開設の勅諭とは?
(国会開設の詔 出典:Wikipedia)
国会開設の勅諭とは、1881年(明治14年)に明治天皇より出された「国会を作ること」「天皇中心の欽定憲法を定めること」などを決めた勅諭です。
当時は政府の問題が非常に多かった為、国民は国民中心で政治を進められる国会の開設を強く望んでおり、板垣退助の提出した民選議員設立の建白書をきっかけに、各地で自由民権運動が活発に行われていました。
そして1881年、北海道開拓長官の黒田清隆の起こした開拓使官有物払下げ事件が明るみに出たことを大隈重信は新聞などでも強く批判します。
(大隈重信 出典:Wikipedia)
大隈はイギリス流の議院内閣制に基づいた憲法の制定、そして国会の早期開設を主張しましたが、それに対し伊藤博文は、憲法はドイツ流、君主大権のビスマルク憲法に基づくべきだと主張。
憲法の見直しは少しずつ進めるべきであり、国会開設に関しても時期尚早であると対立しました。
そしてこの対立は「明治十四年の政変」へと発展。政府部内の主導権争いもあり、1881年8月末に伊藤は大隈一派を明治政府から追放します。
しかしこの事件は国民の怒りを買い、民権運動が更に激化しました。
その為伊藤らは大隈の罷免や払下げの中止、10年後の国会開設などを約束し、民権運動の鎮静化を図ります。
そして同年10月12日、御前会議の裁許を得て、その翌日に国会開設の勅諭が公表されました。
【国会開設の勅諭の語呂合わせ】年号(1881年)の覚え方!
国会開設の勅諭の語呂合わせ①
一派(18)敗(81)退で国会開設の勅諭公表
大隈一派の追放もきっかけとなりました。
国会開設の勅諭の語呂合わせ②
国会開設の勅諭で一番(18)の敗(81)者は伊藤
主導権争いには勝ちましたが民意には負けましたね
国会開設の勅諭の語呂合わせ③
市場(18)でも運動倍(81)になり国会開設の勅諭公表
民権運動の激化は色々な場で見られたでしょうね
国会開設の勅諭の語呂合わせ④
岩(18)が灰(81)になる民権運動で国会開設の勅諭発表
国民の怒りの激しさが窺えます
国会開設の勅諭の語呂合わせ⑤
イヤ(18)でも「はい(81)」と言わせる国会開設の勅諭
民権運動の激しさに伊藤らも意見を変えるしかなかったのでしょうね