1572年に三方ヶ原の戦いで、織田・徳川連合軍は武田軍に惨敗しました。

 

武田信玄はそのまま徳川や織田の領地へ侵攻しようとしますが、1573年に武田信玄が死亡し、いったん侵攻はとまります。

 

その間に織田信長は一向一揆を鎮圧し、足利義昭が降伏、「信長包囲網」を消滅させます。

 

信玄のあとを継いだ武田勝頼は、三河、遠江で徳川家康と領土争いを続けました。

 

そんな中で、武田軍が徳川方の長篠城に攻め込んで、長篠の戦いが始まります。

 

今回はそんな長篠の戦いの概要・年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

長篠の戦いとは?

(味方"連合軍"に援軍が来ることを伝える鳥居強右衛門 出典:Wikipedia

 

 

長篠の戦いとは、1575年、三河(今の愛知県)の当時徳川家臣の城であった長篠城をめぐって織田信長&徳川家康の連合軍と武田勝頼率いる武田軍が争った戦いです。結果は、織田・徳川連合軍が勝利しました。

 

徳川家に属する長篠城に武田勝頼が侵攻して戦いが始まります。

 

武田家は約130万石、徳川家は約48万石で兵力もずいぶん差があったことから、徳川家康は同盟相手である織田信長(約400万石)に援軍を要請します。

 

そして、織田・徳川連合軍は約3万超、武田軍は約15千で戦いました。

 

長篠の戦いでは、はじめて鉄砲が本格的に戦場で使われました。

 

 

戦国最強を誇った武田騎馬軍を、織田・徳川連合軍が3,000丁の鉄砲を駆使して撃退したと言われています。

 

 

(長篠合戦図屏風 出典:Wikipedia)

 

 

おそらく、それまでの戦と比較するとはるかに多くの鉄砲が使われたのだと推測できます。

 

しかし、戦場であった長篠城周辺からは、鉄砲、弾などの残骸は出土していないため、本当に3,000丁もの鉄砲が使われていたのかは不明です。

 

とにかく長篠の戦いでは、鉄砲が戦場で有効な武器になることが証明され、以降の戦いにおいては鉄砲が重用されることになります。

 

武田軍は、武田四天王のうちの三人、内藤昌豊、馬場信房、山県昌景とともに、真田信綱、土屋昌次、原昌胤といった多くの有力家臣が討死しました。

 

長篠の戦いで敗れた武田家は求心力を失い、家臣の裏切りなどが続いて衰退していきます。

 

そして、織田、徳川、北条など他国から侵攻されて追い詰められていきます。

 

衰退した武田家は、1852年に武田勝頼が自害して滅亡しました。

 

【長篠の戦いの覚え方】年号(1575年)の語呂合わせ

長篠の戦いの語呂合わせ①

長篠の以降(15)、泣こう(75)、武田軍

 

長篠の戦いで敗れて、武田家は衰退。涙がとまりません。

 

長篠の戦いの語呂合わせ②

一発(1)でこなご(575)な、鉄砲隊

 

鉄砲を一発撃つと、敵がこなごなに崩れてしまいました。

 

長篠の戦いの語呂合わせ③

長篠で一(1)気にこなご(1575)な、鉄砲隊

 

長篠の戦いで使われた鉄砲で、騎馬隊が一気にこなごなに撃退されてしまいました。

 

長篠の戦いの語呂合わせ④

鉄砲で、人こなご(1575)なに、長篠合戦

 

人をこなごなにしてしまう、鉄砲の威力はおそろしいものです。

 

長篠の戦いの語呂合わせ⑤

長篠以後(15)な(7)んでこう(5)なった、武田軍

 

長篠の戦いで負けて、次々と家臣が離れて滅亡してしまった武田家。なんでこうなったのかと勝頼は嘆いたでしょうね。

 

 

以上、長篠の戦いの語呂合わせでした!

 

 

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