皆さんもご存じのように、英語の constitution という言葉は、憲法だけでなく、組織や構成、国家体制(国制)という意味ももっています。
近代国家が備えるべき憲法も、国家に対してその尊重を約束させた基本的人権のカタログの部分と、国家の仕組みや行動の仕方を定める統治の部分という二つから成っています。
こうした近代的な特徴をもった(特殊な例外を除いて)アジア初の憲法が大日本帝国憲法です。
今回は、この大日本帝国憲法の歴史上の位置づけと年号をご紹介していきます。
目次
大日本帝国憲法とは?
(憲法発布式之図 出典:Wikipedia)
大日本国帝国憲法とは、1889年(明治22年)に公布されました。これはまた、帝国憲法や明治憲法、あるいは現在の日本国憲法との対比で旧憲法ともいわれます。
大日本帝国憲法は、君主の権力が強いプロイセン(ドイツ)型の立憲君主制にならい、君主である天皇が定めたものを臣民である国民に与えるという欽定憲法です。
明治6年の政変で政府から去った板垣退助などによる「民撰議院設立建白書」が、1874年に提出されて以来、自由民権運動が盛り上がりました。
ですが、明治政府の中枢にいた大久保利通や伊藤博文なども、立憲政体を確立すること自体に反対ではありません。
大久保らの政府側と板垣や当時下野していた木戸孝允などが大阪で会合をもち、その結果、1875年には漸次立憲政体樹立の詔が発せられます。
この詔書によって、明治国家は立憲君主制に移行することがはっきりしました。
さらに、1881年には国会開設の勅諭が出され、1890年に国会を開設しそれまでに欽定憲法を制定することを約束して民権派の運動を先取りしてしまいました。
大日本帝国憲法は、1888年、伊藤博文を中心として作成された最終草案を枢密院で審議し、1889年2月に発布され、1890年に施行されました。
(伊藤博文 出典:Wikipedia)
内容をみると広範囲にわたって天皇主権の原則が規定されており、国民の人権保障や他の点に関して近代的といえない部分もありました。
とくに軍隊の位置づけが立憲的でなかったことは、これ以降の歴史にいろいろな影響を与えていきました。
軍部は、政府や議会が関与できない天皇の統帥権のもとにあるとされ、強い独立性が保障されたのです。
大日本帝国憲法は、1946年の日本国憲法公布まで(法的には翌1947年の新憲法施行によって無効となるまで)、太平洋戦争敗戦以前の日本国家の骨格を形成し、歴史上、大きな役割を果たしました。
【大日本帝国憲法の覚え方】年号(1889年)の語呂合わせ
大日本帝国憲法の語呂合わせ①
いち(1)早く(889)大日本帝国憲法発布
昔から言われてきた定番中の定番の語呂合わせですが、憲法発布の日程もまた明治政府が先んじて明らかにしたことに関わらせて「いち(1)は(8)や(8)く(9)」と覚えましょう。
大日本帝国憲法の語呂合わせ②
多くの意見を人は(18)吐く(89) 大日本帝国憲法
自由民権運動が盛り上がったさいにいろいろな考え方が出されたことに加えて、多くの私擬憲法案が発表されていたことに関わらせて、意見を「ひと(1)は(8)は(8)く(9)」と覚えましょう。
大日本帝国憲法の語呂合わせ③
中身も知らずに人は(18)沸く(89) 大日本帝国憲法発布
たとえば、当時のお雇い外国人医師ベルツが日記に書いているように、多くの人々は、賜与された憲法の内容も知らないまま、とにかく祝賀ムードでいっぱいになっていた世相に関わらせて「ひと(1)は(8)わ(8)く(9)」と覚えましょう。
大日本帝国憲法の語呂合わせ④
ひぃ(1)、やや急(889)の大日本帝国憲法
民権派の人にとって、欽定憲法として大日本帝国憲法が頭ごなしに上から急に与えられたと感じられたことに関わらせて「ひぃ(1)、や(8)や(8)きゅう(9)」と覚えましょう。
大日本帝国憲法の語呂合わせ⑤
言わば(188)苦心(9)の帝国憲法
イギリス型、フランス型あるいはドイツ型かといった憲法の方向性に関する議論をドイツ型に導いて、プロイセン系の憲法として制定することに苦心した側に関わらせて「い(1)わ(8)ば(8)くしん(9)」と覚えましょう。
以上、大日本帝国憲法の語呂合わせでした!