12世紀、中国大陸ではモンゴルの大帝国が登場しました。

 

最盛期には、朝鮮半島から黒海沿岸、ヨーロッパまでを領土とした、歴史上もっとも大きな国家です。

 

モンゴルは、5代皇帝フビライのとき、国名を元と替え、中華風の国家へと編制替えをします。

 

この元が、領土拡張の一つとして日本へ攻めてきた事件を元寇といいます。元寇は、文永の役と弘安の役の2回ありましたが、これらについては順序を誤って覚えたり、年号を混同しやすいところです。

 

今回は1回目の「文永の役(ぶんえいのえき)」の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

その前にまず、文永の役とはどのような出来事だったのかおさらいしていきましょう!

 

文永の役とは?

(文永の役の鳥飼潟の戦い 出典:Wikipedia

 

 

「文永の役」は、鎌倉時代、1274年に起こった第1回目の元との戦いのことです。

 

朝鮮半島で高麗を属国とした元は、1266年に国書を送ってから、6回、鎌倉幕府に服属を求めてきました。これに対して、18歳で執権の座についた8代北条時宗は返書を出しませんでした。国書を無視することで、服属拒否の意志を表明したのです。

 

元からの国書には、従わなければ武力を用いてでも服属させるという意味の文言がありました。

 

言葉通り、元は1274年10月、元と高麗の連合軍(2万8千名といわれます)によって、まず対馬を攻め、次いで壱岐に襲いかかりました。これらの島の武士は全滅し、島民はほとんど殺されました。

 

そして、同月20日には博多に上陸します。元軍は、弓矢と騎乗戦、さらには「てうはう」という手榴弾のような爆発物を用いて、日本の武士たちを苦戦に追い込みます。

 

しかし、この日は、いったん船に引き揚げ、翌朝には姿を消していました。この理由はいろいろといわれています。

 

強い風雨(台風ではない)によって吹流された、元と高麗の武将同士の意思疎通がしっかりとれていなかった、日本側の防衛準備や御家人たちの奮闘を実際に見て、これ以上の戦いは不利になると判断して引き揚げたなどです。

 

しかし、これで元は日本侵攻を諦めたわけではありません。7年後、1281年に再びやってきます(弘安の役)

 

 

【文永の役の覚え方】年号(1274年)の語呂合わせ

文永の役の語呂合わせ①

鎌倉の油断は 一時(12)もなし(74) 文永の役

 

鎌倉幕府は、元からの国書、朝鮮半島での情勢などから元が日本にも攻めてくると判断して、異国警護番役などをおいて防備をしていたことに関わらせて「いち(1)じ(2)もな(7)し(4)」と覚えましょう。

 

文永の役の語呂合わせ②

鎌倉の武士にひるむ 人ぞ(12)なし(74) 文永の役

 

元側の史料によっても指摘されているように、武士たちが元軍の戦い方に戸惑いながらも、勇猛に戦ったことに関わらせて「ひと(1)ぞ(2)な(7)し(4)」と覚えましょう。

 

文永の役の語呂合わせ③

国難に貧富(12)無し(74)文永の役

 

多くの西国御家人が防衛戦に動員され、それを支える農民たちにも負担になったことに関わらせて「ひん(1)ぷ(2)な(7)し(4)」と覚えましょう。

 

文永の役の語呂合わせ④

時宗の悲痛(12)な(7)呼(4)びかけ文永の役

 

まだ若かった8代執権北条時宗が幕府をあげて対応策をとろうとしたことに関わらせて「ひ(1)つう(2)な(7)よ(4)びかけ」と覚えましょう。

 

文永の役の語呂合わせ⑤

元軍のてつはうで引(1)きつ(2)る者なし(74)、文永の役

 

初めて見る火薬を用いた武器てつはうなどで苦戦しながらも、元軍と勇敢に戦った武士たちの様子に関わらせて「ひ(1)きつ(2)るものな(7)し(4)」と覚えましょう。

 

文永の役の語呂合わせ⑥

いま(1)荷(2)無し(74)でやって来た、文永の役

 

文永の役の語呂合わせ⑦

ひどい(1)船(27)酔(4)い、文永の役

 

文永の役の語呂合わせ⑧

元軍、人に(12)なし(74)!

 

 

以上、文永の役の語呂合わせでした!

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