
中世頃までの日本史を学んでいると藤原氏がとにかく多いことに気がつきませんか?
藤原氏の祖はかの有名な中臣鎌足ですがその孫の代になるとそれぞれが家を起こします。
そしてやがて来る藤原氏隆盛の基盤を作りました。
今回は藤原氏隆盛の基盤を作った4兄弟「藤原四子の概要・覚え方(語呂合わせ)」についてご紹介します。
目次
藤原四子とは?
藤原四子とは、中臣(藤原)鎌足を祖父に、藤原不比等を父に持つ4兄弟のことです。
大化の改新を成し遂げた中臣鎌足は669年の臨終の際に天智天皇から藤原姓を賜りました。
そして大宝律令や養老律令を編纂した鎌足の子・藤原不比等には4人の兄弟がいました。
また4兄弟以外にも3人の娘たちがおりそれぞれ天皇に嫁がせることで外戚として力を蓄えました。
◆藤原四子と四家
それでは藤原四子とそれぞれが起こした家を見ていきましょう。
長男:藤原武智麻呂(むちまろ)
「南家」を起こす
後に道鏡と権力を争った藤原仲麻呂は武智麻呂の子
二男:藤原房前(ふささき)
「北家」を起こす
平安時代に藤原冬嗣がもととなり隆盛を誇る 有力な藤原氏は北家の出身
摂関政治を行い栄えたが中世以降は実質的に無力化した
三男:藤原宇合(うまかい)
自らの式部職に由来した「式家」を起こす
孫の藤原種継が785年に長岡京造営中に暗殺される事件が起きた
四男:藤原麻呂(まろ)
自らの左京職大夫に由来した「京家」を起こす
【藤原四子の語呂合わせ】簡単!おすすめ覚え方
藤原四子の語呂合わせ①
南部から来たフサさん式のウマいマシュマロを今日食べた
→南部(南家・武智麻呂)から来たフサさん(北・房前)式のウマい(式家・宇合)マシュマロを今日(麻呂・京家)食べた
南部出身のフサさんが作るマシュマロの味は絶品です。
藤原四子の語呂合わせ②
なんか無茶、馬を指揮して魔境に行く
→なんか(南家)無茶(武智麻呂)、馬を指揮(宇合・式家)して魔境(麻呂・京家)に行く
道路もないような未開の地への冒険は馬に限るといいます。
藤原四子の語呂合わせ③
かまってといふ人は無茶なことをしてふさぎ込む前にマロングラッセ食べてね
→かまって(鎌足)といふ人(不比等)は無茶(武智麻呂)なことをしてふさぎ込む前に(房前)マロングラッセ(麻呂)食べてね
じいちゃんが鎌足で父ちゃんが不比等ではプレッシャーだったでしょうね。ストレスがたまった時には甘いものを食べて元気を出そう。
以上、藤原四子の語呂合わせでした!
おまけ
◆藤原四子と長屋王の乱
優れた政治家であった4兄弟の父・藤原不比等は720年に亡くなります。
すると朝廷では天武天皇の孫・長屋王(ながやおう)が右大臣に就き政治の場で活躍を始めます。
さらに724年に聖武天皇が即位すると長屋王は官職の最高位である左大臣になりました。
こうした状況を藤原四子は苦々しく思っていたようです。
というのも「父・不比等亡き後は政治の実権を自分たちが握るのは当然である」と考えていたからです。
そんな藤原四子にとって最大のライバルというよりも邪魔者だったのが長屋王でした。
そこで藤原四子は729年に「長屋王に謀反の兆候在り」と聖武天皇に告げます。
哀れにも藤原宇合らに邸を囲まれた長屋王は一族もろとも命を絶ってしまいました。(長屋王の変)
◆その後の藤原四子
「長屋王の変」が終わると藤原四子は自分たちの姉妹で聖武天皇に嫁いでいた光明子(こうみょうし)を正妻(皇后)の座につけ初めて皇族以外の皇后を誕生させました。
こうして政治の覇権を握った藤原四子でしたが737年になるとわずか4か月ほどの間に相次いで天然痘にかかり全員が亡くなってしまいました。
都ではしばらくの間「長屋王の祟り」として噂されたといいます。
祟りの真偽はともかくこれ以降北家・藤原冬嗣が出てくるまで藤原氏が政治の表舞台に立つことはありませんでした。