【承和の変の語呂合わせ】年号(842年)の覚え方を紹介!【おすすめ5選】

 

仁明天皇が833年に即位すると、淳和上皇の皇子である恒貞親王が皇太子となりました。

 

しかし天皇には、藤原冬嗣の娘の順子との間に道康親王という子がおり、順子の兄である藤原良房は、道康親王を皇太子にしようと画策していました。

 

このような状況下で842年に起こったのが承和の変です。

 

今回はこの承和の変の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。

 

承和の変とは? 

 

承和の変とは、平安時代初期の842年に起こった政治的な陰謀による事件です。

 

840年に淳和上皇、8427月に嵯峨上皇が亡くなると、その2日後に伴健岑(とものこわみね)や橘逸勢(たちばなのはやなり)たちが謀反の疑いで突然逮捕、流罪になりました。

 

責任を問われた恒貞親王も皇太子を廃されてしまい、その後は道康親王が皇太子となりました。

 

 

(道康親王 出典:Wikipedia)

 

 

実はこの道康親王は、この事件の後に大納言になった藤原良房の妹、順子と仁明天皇との間に生まれた子で、良房はこれよりも前から自身の甥である道康親王の立太子を画策していました。

 

良房の意図を察した当時の皇太子である恒貞親王は、皇太子を辞するという意思表明をしましたが、当時はまだ恒貞親王が天皇や上皇により慰撫(いぶ)されていたため、皇太子辞することはできませんでした。

 

承和の変で伴健岑らには謀反の意図はあったようですが、恒貞親王の廃太子の理由については非常に曖昧で、この事件は旧豪族を打倒し道康親王を皇太子にするための良房の陰謀だと言われています。

 

実際、承和の変の後に良房は甥を皇太子にするだけでなく娘を皇太子妃とし、皇室との関係を深めます。

 

そしてこの事件をきっかけに、その後藤原北家は摂関政治体制を作っていくこととなるのです。

 

【承和の変の語呂合わせ】年号(842年)の覚え方!

承和の変の語呂合わせ①

承和の変では(8)死人(42)が出たか?

 

流罪なので出なかったということで良いでしょうか…

 

承和の変の語呂合わせ②

野心(84)に(2)負けた、承和の変

 

藤原良房の陰謀により起こった事件だと言われています。

 

承和の変の語呂合わせ③

謀反で恥に(842)なった承和の変

 

確証はなかったものの流罪になったのは辛いですね。

 

承和の変の語呂合わせ④

流罪では(8)死に(42)たくない承和の変

 

知らない土地で死ぬのは寂しいものです。

 

承和の変の語呂合わせ⑤

端に(842)いたのに承和の変で政治の中心へ

 

藤原北家による摂関政治体制が始まります。

 

 

以上、承和の変の語呂合わせでした!

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