
19世紀後半、欧米を中心とした列強諸国の帝国主義政策は一段と激しさを増していきます。
近代化を急速に進めていた日本も「富国強兵」のスローガンのもと日清・日露戦争に勝利。
特に、アジアの小さな島国である日本が大国ロシアに勝利した日露戦争は欧米列強諸国に驚きと警戒心を与えた出来事でした。
今回紹介するポーツマス条約とはこの日露戦争後に結ばれた講和条約です。
ポーツマス条約の覚え方とともにポーツマス条約とはどのような条約だったのかを見ていきましょう。
目次
ポーツマス条約とは?
(ポーツマス会議の様子 出典:Wikipedia)
ポーツマス条約とは、日露戦争後の1905年(明治38年)に日本とロシアの間で結ばれた日露講和条約のことです。
講和会議がアメリカのポーツマスで行われたことからポーツマス条約とも言います。
会議には日本からは小村寿太郎、ロシアからはウィッテが全権を任されて出席・調印しました。
そもそもなぜ会議はアメリカで行われたのでしょうか?
日露戦争の開戦から1年、日本は莫大な戦費の調達に苦しんでいましたし、ロシアも増え続ける戦費の負担と国内情勢の悪化に苦慮していました。
そこで日露に講和をすすめたのがアメリカのルーズベルト大統領であり、中立の立場にあるアメリカのポーツマスで会議が開かれました。
(日本の講和団 出典:Wikipedia)
ポーツマス条約の内容は以下の通りに締結されました。
条約の内容
①日本の韓国での優越権
②旅順・大連の租借権、長春以南の鉄道権益
③北緯50度以南の樺太(サハリン)の譲渡
④沿海州の漁業権など
ただしロシアが強固に反対したために賠償金の支払いは認められませんでした。
もし賠償金の支払いを命じるのなら再び戦争を始めるというロシアに対して、資金も兵力も尽きかけていた日本は応じるほかなかったのです。
しかし、苦渋の選択とは言えポーツマス条約で得た領土は少なく、賠償金も得られなかったことから日本国民に大きな不満と怒りをもたらしました。
多くの死傷者や戦争のための税負担という多大な犠牲に比べてポーツマス条約の内容は屈辱的なほど物足りないと評価され、調印と同じ日には東京の日比谷公園で国民大会が開かれ警察署や内閣官邸、新聞社などが襲撃されました。(日比谷焼き打ち事件)
【ポーツマス条約の覚え方】年号(1905年)の語呂合わせ
ポーツマス条約の語呂合わせ①
遠く(19)でおこ(05)なったポーツマス条約
日本でもなくロシアでもなくアメリカで講和会議が開かれました。
ポーツマス条約の語呂合わせ②
日暮れ(190)こ(5)ろに調印したポーツマス
ポーツマス条約の調印が行われたのは日本時間の9月5日15:45頃です。日暮れ時と言えなくはないですよね。
ポーツマス条約の語呂合わせ③
ひどく(19)おこ(05)られた小村寿太郎
条約調印後に日本に帰って来たくなかったでしょうね、小村大臣。
ポーツマス条約の語呂合わせ④
異句(19)同音でポーツマスにおこ(05)る国民
さまざまな言葉で怒りをぶつけた国民のなんと多かったことでしょう。
ポーツマス条約の語呂合わせ⑤
遠くを(190)ご(5)覧とポーツマス
賠償金を得るために再びロシアと戦争をしていたら日本はどうなっていたでしょうね。苦渋の選択でしたが将来を考えての決断であったのでは?
ポーツマス条約の語呂合わせ⑥
お得(19)なおこ(05)ないポーツマス
ポーツマス条約の語呂合わせ⑦
行く(19)ぞ!黄金(05)ゲットだポーツマス
以上、ポーツマス条約の語呂合わせでした!