長い間栄華を極め一族の繁栄と莫大な富を手にしてきた藤原氏。
しかし、11世紀に入ると藤原氏の摂関政治にも荘園経営にも大きな陰りが見え始めます。
今回は藤原氏没落の大きな要因となった「延久の荘園整理令の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)」を紹介します。
目次
延久の荘園整理令とは?
(後三条天皇 出典:Wikipedia)
延久の荘園整理令とは、1069年に後三条天皇によって出された荘園の基準を明確にするための法令です。
これ以前にも延喜の荘園整理令(902年)、永観の荘園整理令(984年)、寛徳の荘園整理令(1045年)、天喜の荘園整理令(1055年)と4回出されていましたがいずれも大きな成果を上げることはできませんでした。
そこで後三条天皇はこれまでになかった「記録荘園券契所」という記録所を設けて徹底的な審査を行い基準に達しない荘園は次々と停止、没収しました。
実は延久の荘園整理令以前の4回の整理令では、摂関家の荘園や寺社は対象外でした。
各天皇とも藤原氏と姻戚関係にあり藤原氏の荘園に手を出せなかったこと、審査を行う国司の任命権者が藤原氏であったため正当な審査が実施されなかったこと、などとにかく藤原氏の権勢には天皇もかなわなかったからです。
しかし、今回からは摂関家の荘園も対象としたため、広大な荘園を持っていた藤原家の経済的なダメージは大きくこのことが後の没落を招いた一因です。
*藤原氏の収入は①荘園からの直接的な収入や寄進地系荘園からの名義料②官職にともなう収入③国司任命に伴う収入、が基盤でした
藤原氏の外戚ではない170年ぶりの天皇であった後三条天皇はこの機会に藤原氏を排斥し摂関政治を終わらせる意図がありました。
経済的基盤を失った藤原氏はやがて没落、ついに後三条天皇亡き後の1086年からは白河天皇による院政が始まることになりました。
【延久の荘園整理令の語呂合わせ】年号(1069年)の覚え方!
延久の荘園整理令の語呂合わせ①
永久(延久)に登録(1069)したい荘園整理令
荘園という名前はかの豊臣秀吉による太閤検地により消えました。
延久の荘園整理令の語呂合わせ②
人を(10)無休(69)で働かせた延久の荘園整理令
無給で働いていたのは荘園の農民か?記録所のお役人か?
延久の荘園整理令の語呂合わせ③
藤原頼道という人を(10)ロック(69)オンした延久の荘園整理令
ロックオン=標的です。狙い撃ちです。栄華は永久ではなかった。
延久の荘園整理令の語呂合わせ④
延久の荘園整理令、戸を(10)ロック(69)して記録所に行こう
いつの時代も戸締りをしたか確認してから出かけましょう。
延久の荘園整理令の語呂合わせ⑤
券契とでん六(1069)豆を持って行く延久の荘園整理令
券契とは土地や財産の証文のことです。でん六豆も忘れずに。
以上、延久の荘園整理令の語呂合わせでした!
【おまけ】延久の荘園整理令が出されたもうひとつの背景
政治的な背景としては摂関家である藤原氏との対立がありました。
それでは経済的な面ではどうだったのでしょうか?
平安時代に入ると律令土地制度は崩壊し各地に荘園ができ始めました。
8~9世紀は「初期荘園(墾田地系荘園)」、10世紀頃からは「寄進地系荘園」が主流となります。
寄進地系荘園の中には国家から租税を免除される「不輸の権」を獲得するものも現れました。
このうち国司が不輸の権を認めた荘園を「国免荘」、朝廷が不輸の権を認めた荘園を「官省府省」といいます。
さらに税の徴収のための検査をする国司から派遣された「検田使」の立ち入りを禁止する「不入の権」を持つ荘園も増えていきました。
こうして租税の免除を受けた荘園が全国に拡大します。そして租税が減る(=脱税が増える)ということは国の財政を大きく圧迫していきました。
また荘園が発達する一方では国司の長である「受領」が荘園以外の土地の経営を始めます。
このような土地のことを「国衙領(こくがりょう)」または「公領」といい、この当時の土地の支配体形のことを「荘園公領制」といいます。
延久の荘園整理令が行われたことで摂関家などの貴族や寺社の荘園と国司の所有する公領(国衙領)がはっきりと区別されるようになり、荘園への公田の取り込みも禁止となりました。