江戸幕府が鎖国して以降、長らく外国との表立った交流を行ってこなかった日本に軍事力を背景に開国を迫ったのがアメリカのペリーです。

 

ペリーによって開国した日本はその後、一気に世界の荒波に飲み込まれていくこととなります。

 

今回は、その第一歩となった1854年の日米和親条約の覚え方についてご紹介します。

 

その前にまずは日米和親条約がどのような出来事だったのかおさらいしていきましょう!

 

日米和親条約とは?

(ペリー"中央"ら三人の使節 出典:Wikipedia

 

 

日米和親条約とは、1854年(嘉永7年)に大学頭である林韑とアメリカの東インド艦隊司令官ペリーが横浜で調印した条約のことです。

 

江戸時代は長らく鎖国体制でしたが、江戸時代末期になると世界中で広がる帝国主義のもとで日本に多くの異国船が現れ、様々な事件を起こすようになりました。

 

そこで、江戸幕府は、1825年に国交のある清とオランダ船以外の船は撃退するようにという異国船打払令を出して対応していました。

 

しかし、モリソン号事件や阿片戦争敗北による清の有様を見た幕府は、1842年に薪水給与令に切り替え、必要な食料や薪水を与えて速やかに退散してもらうように対応を変えていきました。

 

1853年に、フィルモア大統領の命を受けたペリーが艦隊(日本では黒船と呼ばれた)を率いて浦賀沖に現れ、開国・通商を求めました。

 

 

幕府は一年の猶予を求め、一時退去してもらうことになりました。しかし艦隊を率いたペリーの来航に日本は衝撃を受け、翌年の対応も条約締結以外には選択肢はない状態となりました。

 

翌年の1854年に再び艦隊を率いて東京湾に来航したペリーと日本は全12箇条からなる日米和親条約を締結、調印しました。

 

条約の内容は主に以下になります。

条約の主な内容

 

下田と函館の開港をすること

 

漂流した人への救済&必需品を与えること

 

最恵国待遇の与えること

 

領事駐在兼を認めること

 

 

その後、イギリス、ロシア、オランダとも類似の内容の条約を結ぶこととなり、一気に国は開かれることとなりました。

 

【日米和親条約の語呂合わせ】年号(1854年)の覚え方

日米和親条約の語呂合わせ①

一夜(18)越し(54)でも答え出ず、日米和親条約

 

実際には一年越しで対応を悩んでいますね。

 

日米和親条約の語呂合わせ②

いや~(18)、交信(54)も難しかったな、日米和親条約

 

日本は英語での対応に非常に苦労したことでしょう

 

日米和親条約の語呂合わせ③

ペリー一派(18)の行進(54)怖くて日米和親条約締結

 

ペリーが親書を持って迫ってきたときは、とても怖かったでしょうね。

 

日米和親条約の語呂合わせ④

嫌(18)な行使(54)だ日米和親条約

 

アメリカの嫌な行使により条約を結んでしまいました。

 

日米和親条約の語呂合わせ⑤

日米和親条約でペリー一派(18)と関係更新(54)

 

一年越しの関係更新にペリーも満足したことでしょう。

 

 

以上、日米和親条約の語呂合わせでした!

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