【承久の乱の覚え方】年号(1221年)の語呂合わせを紹介!【おすすめ8選】

 

武士勢力が台頭して、12世紀の末、鎌倉幕府が成立します。

 

しかし、幕府が開かれたからといって、すぐに朝廷が力を失ったわけではありません。むしろ、東日本に鎌倉幕府、西日本に朝廷という二重の権力機構が存在していたといえます。

 

このバランスが崩れて、はっきりと武家政権に重点が移った事件が承久の乱です。

 

今回はこの『承久の乱』の重要性を理解して、これの概要と年号をしっかり勉強しておきましょう。

 

承久の乱とは?

(後鳥羽上皇 出典:Wikipedia

 

 

「承久の乱」とは、1221年、後鳥羽上皇が鎌倉幕府の執権北条義時追討の宣旨を出し、鎌倉幕府と武力で衝突して敗北した事件のことです。(※承久の変といわれています)

 

鎌倉幕府の初代将軍源頼朝が死亡したあと、その子の頼家が第2代将軍になりました。

 

しかし、北条時政を中心とする有力御家人たちは頼家を退け、弟である千幡、名を改めて実朝を第3代将軍にして、時政が執権に就任しました。

 

後鳥羽上皇は、和歌を好む京風の教養人でもあった実朝に好意をもっており、当初は公武関係の融和政策をとっていました。しかし、その実朝が暗殺されてしまいます。これを転機に、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府との良好な関係を維持する意欲を失ってしまいました。

 

後鳥羽上皇は、実質的な北条政権となった鎌倉幕府と緊張関係に入っていきます。たとえば、これは実朝が存命中からの問題ですが、朝廷や院の荘園における地頭の任免について対立していました。

 

また、鎌倉幕府が求めた、上皇の皇子を将軍として関東へ下すことを拒否しました。この点は摂関家の子を鎌倉将軍とすることで妥協できましたが、後鳥羽上皇は鎌倉幕府への不満を強め、倒幕の準備を開始します。

 

そして、1221年5月、後鳥羽上皇は、時政を引き継いだ執権北条義時を追討せよとの宣旨を出し、流鏑馬を口実にして兵を集め、京都守護を討ち取りました。

 

これに対して、鎌倉幕府は三方から大軍を京都に進攻させ、6月には京都を占領してしまいます。このあと、後鳥羽上皇は隠岐に、その子である順徳上皇と土御門上皇は佐渡と土佐に流されました。

 

幕府軍を率いて上洛した北条義時の子である泰時(のちに第3代執権)、弟である時房(のちに連署)は京都にとどまります。この2人は六波羅探題として朝廷の監視と西国御家人の統率にあたることになり、武家政権の全国的な優位が明確になりました。

 

【承久の乱の覚え方】年号(1221年)の語呂合わせ

承久の乱の語呂合わせ①

人に(12)不意(21)打ち、承久の乱

 

昔から言われてきた定番の語呂合わせですが、親幕派の公家や京都守護にとっては不意打ちに近かったことに関わらせて「ひと(1)に(2)ふ(2)いうち(1)」と覚えましょう。

 

承久の乱の語呂合わせ②

全国の人に(12)二色(21)、承久の乱

 

全国の武士たちだけでなく、公家たちの間でも後鳥羽上皇側と鎌倉幕府側に分かれて戦ったことに関わらせて「ひと(1)に(2)ふた(2)いろ(1)」と覚えましょう。

 

承久の乱の語呂合わせ③

いつ(12)不意(21)を突かれるか承久の乱

 

①と同様、不意を突かれた親幕府の人たちに関わらせて「い(1)つ(2)ふ(2)い(4)」をつかれるかと覚えましょう。

 

承久の乱の語呂合わせ④

上皇の否認(12)に(2)いらだち(1)承久の乱

 

鎌倉幕府が将軍継嗣に上皇の皇子を望んだのに対して、後鳥羽上皇が拒否したことに関わらせて「ひ(1)にん(2)に(2)いらだち(1)」と覚えましょう。

 

承久の乱の語呂合わせ⑤

上皇の意に(12)沿わん(21)から承久の乱

 

後鳥羽上皇の幕府討伐へ意思を固めるプロセスに関わらせて「い(1)に(2)そ(2)わん(1)」と覚えましょう。

 

承久の乱の語呂合わせ⑥

 いつ(12)に(2)行(1)こうか承久の乱に。

 

承久の乱の語呂合わせ⑦

 意地(12)悪、爺(21)さん、承久の乱

 

承久の乱の語呂合わせ⑧

いい(1)夫婦(22)の今(1)は承久の乱

 

 

以上、承久の乱の語呂合わせでした!

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