
日本人なら誰もが知っている織田信長。
天下統一を目の前にしながら、49歳のとき本能寺の変で明智光秀に討たれました。
そんな信長も、20代の頃は尾張の弱小大名でした。近くの大大名、今川義元が上洛を目指して尾張に攻めてきたとき、織田家は滅亡寸前でした。
ですが、信長は尾張の桶狭間で今川軍を撃破します。これを桶狭間の戦いといいます。
今回は、そんな桶狭間の戦いの概要・年号の覚え方(語呂合わせ)をご紹介します。
目次
桶狭間の戦いとは?
(尾州桶狭間合戦 出典:Wikipedia)
桶狭間の戦いとは、1560年に尾張に侵攻した今川義元が、桶狭間で織田信長と戦って信長が勝利した戦いです。日本三大奇襲戦に数えられています。
今川義元は駿河と遠江(今の静岡県あたり)を支配する大名で、約2万5千の軍勢で、尾張に侵攻しました。
対する織田信長は約5千の軍勢。今川軍と織田軍は尾張の桶狭間(今の愛知県)で衝突します。
織田軍が今川軍の本陣に奇襲を仕掛けて、午前11時に始まった戦いは約2時間で、大将・今川義元を討って決着しました。
(今川義元 出典:Wikipedia)
少ない兵力の織田軍が今川軍に勝てた要因は・・・
✔ 駿河から尾張まで約1週間遠征してきていた今川軍は疲れていた
✔ 大軍勢で、勝利を確信して今川軍が浮かれていた
✔ 今川軍の動きを梁田正綱(やなだまさつな)ら偵察係により織田軍は把握していた
✔ 奇襲時にたまたま嵐となり、今川軍は織田軍に気付くのが遅れた
✔ 織田軍は兵農分離されていて、兵士の士気が高かった
というのが挙げられます。
桶狭間の戦いで今川家が敗れたあと、今川家の人質だった松平元康(のちの徳川家康)が三河で独立して大名になります。
そして、織田家と松平家は同盟を結びました。
今川家は今川氏真が義元のあとを継ぎますが、徐々に衰退し、1569年に戦国大名としての今川家は滅亡します。
その後、徳川家と同盟を結んだ織田信長は天下布武へと動き出します。
【桶狭間の戦いの覚え方】年号(1560年)の語呂合わせ
桶狭間の戦いの語呂合わせ①
今ごろお(1560)どろく、今川軍
織田信長の奇襲に今頃気付いておどろいた今川軍。遅かったですね。
桶狭間の戦いの語呂合わせ②
以降、無礼(1560)OK(桶狭間)な織田信長
桶狭間で勝ってから、無礼なふるまいが増えてきた信長です。
桶狭間の戦いの語呂合わせ③
以後(15)、徳川と群れ(60)なして攻める織田信長
桶狭間の戦い勝利後、信長は同盟相手の徳川家康と一緒に敵を攻めていきます。
桶狭間の戦いの語呂合わせ④
一気に行こう(15)!群れ(60)て桶狭間へ
桶狭間へ一直線に向かって奇襲を仕掛けた信長でした。
桶狭間の戦いの語呂合わせ⑤
ちょうどいい頃(156)に攻めた桶(0)狭間
織田信長は、嵐の中、ちょうどいいタイミングで桶狭間にいる今川軍を攻めることができました。
以上、桶狭間の戦いの語呂合わせでした!
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