天皇の玉音放送によって降伏を認め、1945年8月15日太平洋戦争終了の日を迎えました。
日本はアメリカ、イギリス、中国(後にソ連)の四国からのポツダム宣言を受け入れました。
今回は、このポツダム宣言の概要・年号の覚え方(語呂合わせ)についてご紹介します。
目次
ポツダム宣言とは?
(日本のポツダム宣言受諾を発表するトルーマン 出典:Wikipedia)
ポツダム宣言とは、1945年(昭和20年)にアメリカ、イギリス、中国による日本への降伏要求の最終宣言です。
1945年7月に対ドイツに対しての戦後対応処理の課題について、ドイツのポツダムの会談に参加したのは、アメリカのトルーマン=ドクトリン大統領、イギリスのクレメント・リチャード・アトリー首相、ソ連のヨシフ・スターリンでした。
この会談の中で、日本への降伏勧告としてアメリカが主導して日本への降伏勧告声明として出したのがポツダム宣言で、三国共同声明とも言われています。
中国と日本は連合国とは別途の戦争状態となっていたため、アメリカのトルーマン大統領が電話にて中国の蒋介石に戦争終了のために練り上げてきた内容を電話で伝達し、了承を得たため署名が入っています。
ソ連のヨシフ・スターリンはポツダム会談に参加はしたものの、日ソ中立条約が有効であったため、ポツダム会談の場では署名を行っていません。
アメリカはドイツ降伏後、日本に無条件降伏を促していたが、日本政府は受け入れず抗戦の意思を表明して戦いを継続していました。
7月にポツダム宣言の中でも無条件降伏を勧告し、その内容は全13項目からなっています。
日本軍隊の無条件降伏や武装解除と復員、軍国主義の廃止や植民地の返還、民主主義国家の確立、平和産業の確保、戦争犯罪人の処罰などの内容が盛り込まれていました。
日本国政府(鈴木貫太郎内閣)はすぐに回答を出さず「黙殺する」という首相の発言を「日本の拒否」と受け取られ、アメリカは予告どおり攻撃を行いました。
(鈴木貫太郎内閣 出典:Wikipedia)
戦略の一部としてソ連のヨシフ・スターリンが日ソ中立条約を破棄して8/6に参戦を表明し、8/8にポツダム宣言に署名しました。アメリカは広島・長崎に原爆を落として日本は多数の犠牲者を出すに至りました。
日本の政権内部でポツダム宣言の受諾の可否の閣議は行われたものの、はっきりと決断がされないまま、昭和天皇へ伝えられました。
昭和天皇の国民がこれ以上被害にあわないようにという平和への願いにより8月14日に受諾され、8月15日に天皇の名でポツダム宣言の受諾の玉音放送が行われ終戦を迎えました。
【ポツダム宣言の語呂合わせ】年号(1945年)の覚え方!
ポツダム宣言の語呂合わせ①
ポツダム宣言、引く(19)よ、ソ連への侵攻(45)
戦に負けるとは思わず、ソ連への侵攻を続けた日本軍。軍部内でも意見が分かれ、ポツダム宣言を受け入れるまで、多数の犠牲者を出すことになりました。
ポツダム宣言の語呂合わせ②
行く(19)よ、ポツダム宣言の信号(45)
「黙殺する」という一言が誤訳されてアメリカに伝わったことから、アメリカの攻撃が強まり、最終的にポツダム宣言を受け入れることとなりました。
ポツダム宣言の語呂合わせ③
ポツダム宣言、一句(19)で決まった信仰 (45)
ポツダム宣言の中に天皇制の変更文言がないことを確認した上で、東郷外務大臣がスイス・スウェーデン政府経由で4か国にポツダム宣言の受諾を伝えました。
ポツダム宣言の語呂合わせ④
ポツダム宣言、行く(19)先の信号(45)は赤
ポツダム宣言の受諾の回答に時間がかかり戦火が大きく広がりました。
ポツダム宣言の語呂合わせ⑤
ポツダム宣言、一級(19)の戦後へ再出航(45)
ポツダム宣言を受け入れ、軍国主義から民主主義に変わる新たな日本を作り始めることとなりました。
以上、ポツダム宣言の語呂合わせでした!